感情や感情反応は選ぶことができる
Q、 なぜバランスを保つことが大切なのですか?
エネルギーのアンバランスは人を苦しめつづけるので、ほとんどの人がエネルギーのバランスを取り戻すために転生を繰り返すことになります。つまり感情的、精神的にだけでなく、肉体的なアンバランスが病をもたらすことで人生を混乱に陥れる結果、その原因である単純な問題ですらその本質がわからなくなってしまうのです。
愛の心を持つ人であっても、ちょっとしたことにすぐ落ち込んだり、同じく非常に短気で怒りっぽかったりします。こういった人々はそういうエネルギー状態を「鎮める」ために、知性という倫理的機能や、エネルギーというものに関する知識を用いることが役に立つでしょう。
また一方で多くのインテリと言われる人々は、知的活動に偏りすぎているために、直感的活動を働かせることができず、そうした感性が萎えているものです。そのような人々は自分の内なる感情的側面に接して意識することで、本来のバランスを取り戻す必要があります。そうした大きな偏りというアンバランスの問題がないほうが、「大いなる自由」へ向けて確実な歩みを進めやすいのです。
ほとんどいつも、知的機能あるいは感情的機能のどちらかだけを使っている場合、その人にはバランスが欠けていると言えます。そして現代ではこのようなアンバランスがむしろ助長されています。つまり男性は知的性格を、女性は感情的性格を持っていると信じられているからです。このような考え方は、人間がバランスよく他の面へと移行することを妨げています。
よくバランスのとれた人とは、こうした両方の側面を自由に用いることができ、人の心や気持ちがよくわかり、そのゆえに深い愛情を持って人と接することができ、しかも感情や知性に溺れることのない、囚われない心の持ち主です。
Q、 どうすれば、ものごとに囚われないようになれるでしょうか?
今日の地球上の生活において、よく見られる状況を例にとって見ましょう。
あなた方は1日中働いた後、車を運転しながら交通ラッシュを通過して家に帰ります。回りは同じような車で溢れています。とても疲れていますが、道路はひどい大渋滞で、家に着くまでに大分かかるだろうということが予想されます。すると突然、あなたの前にいた車が思いがけないひどい動きをし始めたのです。「ひどい動き」とはつまり、あなたが「こうあるべきだ」と考えるやり方以外のすべてのことです。
しかし、まさにこのときこそ、ものごとに囚われないことを学ぶチャンスなのです!
あなたはその状況に出くわして、まず怒りの感情が湧き起こってくるのを感じます。あなたの肉体の中に、はっきりとした怒りのうごめきがあります。こうした状況の最初に怒りが起きるのを防ぐことはできないでしょう。それはかまいません。しかしその次にあなたがすることが非常に大切なことになります。
まず、怒りを感じた瞬間に、「これは怒りだ」と言うのです。
つまり心の中でその感情に「名前をつける」のです、「これは怒りだ」というように。なぜなら自分の中ではっきり認識しなくてはならないことは、怒りというエネルギーが存在し、そのエネルギー状態にいる誰かが別に存在しているということです。
しかし、「私は怒っている」と言ってはいけません。
それでは、自分と怒りが一つになってしまうからです。「これは怒りだ」と言えば、「怒り」と「あなた」という存在が二つあることになります。
次にするべきステップは、「自分が取りたい反応を選択する」ことです。
このような場合であっても、自分には選択することができるということが、やがてわかってきます。そしてまさにこのことが、ものごとに囚われない境地へと導いてくれるのです。
もしあなたが、自分ではコントロールすることができない感情的エネルギーがあると思っているならば、あなたはそのゆえに、自分の反応をまったくコントロールすることはできないでしょう。あなたはこれまでのようにいつも自分の感情にコントロールされて、どんな感情でも自分の中を吹き荒れるがままに無意識的に翻弄され、流されるままになってしまうでしょう。
しかし「本来の自分は感情とは一つものではない」、ということがすぐにわかるようになります。そしてここで、あなたは選択するのです。「これまでと同じように、自分はまた怒りの罵詈雑言の劇を繰り返したいのだろうか?」、と自問してください。こうしたシナリオがどのような筋書きであるかはもうよくわかっています。相手の車をやり込めようとしてクラクションを鳴らし、げんこつを振り回し、怒鳴るのです。これらはすべて筋書きの中にあり、仕返ししようとします。時には復讐するために、自分自身や自分の車を痛めることもかまわずにぶつけたりさえします。
でもやがて、「相手に怒るかどうかは関係ない、問題の本質はそこにはないのだ」、ということがわかるようになります。あなたがそうした反応から解放されて、「大いなる自由」を求めるのであれば、自分の真の力とは「選択することにある」、ということを理解しなければなりません。それを理解した瞬間から、あなたは他の反応を選択する自由を手にするのです。
さまざまな状況に出くわして、自分の中に感情的エネルギーが湧き上がってくるのに気づいてください。そのエネルギーの存在を認め、その感情に名前をつけてください。名前をつけることによって、自分とそのエネルギーを区別することができ、1歩離れたところに自分を置くことができます。そして今までのような反応の仕方を変えたいと思わなければなりません。そうすればできます。まず、「たった今、私はこれまでとは違うものを選ぶのだ」と言うことから始めてください。そして選ぶのです。
こだわらないことを実行するのは、難しいことではありません。
それよりもむしろ難しいのは、まず「こだわらないようになりたい」という決心をすることにあります。自分に正直であれば、自分が攻撃されたならば仕返しをしたいと思うことを認めるでしょう。恨みを抱き、自分が受けた仕打ちをいかに相手に返すかについて、あれこれ考えます。誰もあなたを止める者はいないでしょうから、思いのままに満足するまで攻撃してみるといいでしょう。
そしてその結果、傷つくのは自分自身であることがわかるでしょう。
そうした生き方は自分を惨めに感じさせ、自己嫌悪に陥らせるものです。そうした怒りや復讐などよりも、自分で選択する生き方のほうがずっと生き生きした生き方だということがわかります。あなたは「一なる根源の創造主」から生まれた神の共同創造者なのですから、どうせ生きるなら、生き生きとした喜びにあふれ、創造する生き方を始めたほうがよくありませんか? 否定的で、他人への敵対心に満ちたやり方はやめたほうがいいのです。
そのためには、外部に気を取られずに、完全に自分のうちに留まることです。
そうであるとき、瞬間に起きていることを明確に意識することができるのです。車を運転しているときには、ハンドルを握る自分の手や、アクセルを踏む自分の足、自分の顔に当る風の感覚、空気の匂いなどを意識し、こうしたすべてのことに敏感であってください。
そして怒りや恨みが湧き起こってきたときには、「あなたがそこにちゃんといることができるよう」でなければなりません。そうすれば、「上司にああ言えばよかった」、などという後悔をする必要もなくなります。なぜならそうした状況において、瞬間的に自分の感情を感じて認め、変えることができるからです。つまり、これまでしてきた昔ながらの反応から自由になることができるのです。
しかしあなたの意識がどこかへさまよい出ていてそこになかったら、それは非常に難しいことです。なにしろ、これまでにできあがってしまったあなたの感情的反応というものは、意識していないならば、あなたのいつものやり方で反応するからです。ですからこれまで無意識的であったものを意識して捉え、あなたの意識がどの瞬間であっても、自分とともにあるようにしなければなりません。
エネルギーのアンバランスは人を苦しめつづけるので、ほとんどの人がエネルギーのバランスを取り戻すために転生を繰り返すことになります。つまり感情的、精神的にだけでなく、肉体的なアンバランスが病をもたらすことで人生を混乱に陥れる結果、その原因である単純な問題ですらその本質がわからなくなってしまうのです。
愛の心を持つ人であっても、ちょっとしたことにすぐ落ち込んだり、同じく非常に短気で怒りっぽかったりします。こういった人々はそういうエネルギー状態を「鎮める」ために、知性という倫理的機能や、エネルギーというものに関する知識を用いることが役に立つでしょう。
また一方で多くのインテリと言われる人々は、知的活動に偏りすぎているために、直感的活動を働かせることができず、そうした感性が萎えているものです。そのような人々は自分の内なる感情的側面に接して意識することで、本来のバランスを取り戻す必要があります。そうした大きな偏りというアンバランスの問題がないほうが、「大いなる自由」へ向けて確実な歩みを進めやすいのです。
ほとんどいつも、知的機能あるいは感情的機能のどちらかだけを使っている場合、その人にはバランスが欠けていると言えます。そして現代ではこのようなアンバランスがむしろ助長されています。つまり男性は知的性格を、女性は感情的性格を持っていると信じられているからです。このような考え方は、人間がバランスよく他の面へと移行することを妨げています。
よくバランスのとれた人とは、こうした両方の側面を自由に用いることができ、人の心や気持ちがよくわかり、そのゆえに深い愛情を持って人と接することができ、しかも感情や知性に溺れることのない、囚われない心の持ち主です。
Q、 どうすれば、ものごとに囚われないようになれるでしょうか?
今日の地球上の生活において、よく見られる状況を例にとって見ましょう。
あなた方は1日中働いた後、車を運転しながら交通ラッシュを通過して家に帰ります。回りは同じような車で溢れています。とても疲れていますが、道路はひどい大渋滞で、家に着くまでに大分かかるだろうということが予想されます。すると突然、あなたの前にいた車が思いがけないひどい動きをし始めたのです。「ひどい動き」とはつまり、あなたが「こうあるべきだ」と考えるやり方以外のすべてのことです。
しかし、まさにこのときこそ、ものごとに囚われないことを学ぶチャンスなのです!
あなたはその状況に出くわして、まず怒りの感情が湧き起こってくるのを感じます。あなたの肉体の中に、はっきりとした怒りのうごめきがあります。こうした状況の最初に怒りが起きるのを防ぐことはできないでしょう。それはかまいません。しかしその次にあなたがすることが非常に大切なことになります。
まず、怒りを感じた瞬間に、「これは怒りだ」と言うのです。
つまり心の中でその感情に「名前をつける」のです、「これは怒りだ」というように。なぜなら自分の中ではっきり認識しなくてはならないことは、怒りというエネルギーが存在し、そのエネルギー状態にいる誰かが別に存在しているということです。
しかし、「私は怒っている」と言ってはいけません。
それでは、自分と怒りが一つになってしまうからです。「これは怒りだ」と言えば、「怒り」と「あなた」という存在が二つあることになります。
次にするべきステップは、「自分が取りたい反応を選択する」ことです。
このような場合であっても、自分には選択することができるということが、やがてわかってきます。そしてまさにこのことが、ものごとに囚われない境地へと導いてくれるのです。
もしあなたが、自分ではコントロールすることができない感情的エネルギーがあると思っているならば、あなたはそのゆえに、自分の反応をまったくコントロールすることはできないでしょう。あなたはこれまでのようにいつも自分の感情にコントロールされて、どんな感情でも自分の中を吹き荒れるがままに無意識的に翻弄され、流されるままになってしまうでしょう。
しかし「本来の自分は感情とは一つものではない」、ということがすぐにわかるようになります。そしてここで、あなたは選択するのです。「これまでと同じように、自分はまた怒りの罵詈雑言の劇を繰り返したいのだろうか?」、と自問してください。こうしたシナリオがどのような筋書きであるかはもうよくわかっています。相手の車をやり込めようとしてクラクションを鳴らし、げんこつを振り回し、怒鳴るのです。これらはすべて筋書きの中にあり、仕返ししようとします。時には復讐するために、自分自身や自分の車を痛めることもかまわずにぶつけたりさえします。
でもやがて、「相手に怒るかどうかは関係ない、問題の本質はそこにはないのだ」、ということがわかるようになります。あなたがそうした反応から解放されて、「大いなる自由」を求めるのであれば、自分の真の力とは「選択することにある」、ということを理解しなければなりません。それを理解した瞬間から、あなたは他の反応を選択する自由を手にするのです。
さまざまな状況に出くわして、自分の中に感情的エネルギーが湧き上がってくるのに気づいてください。そのエネルギーの存在を認め、その感情に名前をつけてください。名前をつけることによって、自分とそのエネルギーを区別することができ、1歩離れたところに自分を置くことができます。そして今までのような反応の仕方を変えたいと思わなければなりません。そうすればできます。まず、「たった今、私はこれまでとは違うものを選ぶのだ」と言うことから始めてください。そして選ぶのです。
こだわらないことを実行するのは、難しいことではありません。
それよりもむしろ難しいのは、まず「こだわらないようになりたい」という決心をすることにあります。自分に正直であれば、自分が攻撃されたならば仕返しをしたいと思うことを認めるでしょう。恨みを抱き、自分が受けた仕打ちをいかに相手に返すかについて、あれこれ考えます。誰もあなたを止める者はいないでしょうから、思いのままに満足するまで攻撃してみるといいでしょう。
そしてその結果、傷つくのは自分自身であることがわかるでしょう。
そうした生き方は自分を惨めに感じさせ、自己嫌悪に陥らせるものです。そうした怒りや復讐などよりも、自分で選択する生き方のほうがずっと生き生きした生き方だということがわかります。あなたは「一なる根源の創造主」から生まれた神の共同創造者なのですから、どうせ生きるなら、生き生きとした喜びにあふれ、創造する生き方を始めたほうがよくありませんか? 否定的で、他人への敵対心に満ちたやり方はやめたほうがいいのです。
そのためには、外部に気を取られずに、完全に自分のうちに留まることです。
そうであるとき、瞬間に起きていることを明確に意識することができるのです。車を運転しているときには、ハンドルを握る自分の手や、アクセルを踏む自分の足、自分の顔に当る風の感覚、空気の匂いなどを意識し、こうしたすべてのことに敏感であってください。
そして怒りや恨みが湧き起こってきたときには、「あなたがそこにちゃんといることができるよう」でなければなりません。そうすれば、「上司にああ言えばよかった」、などという後悔をする必要もなくなります。なぜならそうした状況において、瞬間的に自分の感情を感じて認め、変えることができるからです。つまり、これまでしてきた昔ながらの反応から自由になることができるのです。
しかしあなたの意識がどこかへさまよい出ていてそこになかったら、それは非常に難しいことです。なにしろ、これまでにできあがってしまったあなたの感情的反応というものは、意識していないならば、あなたのいつものやり方で反応するからです。ですからこれまで無意識的であったものを意識して捉え、あなたの意識がどの瞬間であっても、自分とともにあるようにしなければなりません。