安全を期待する限り人生を愛することは決してない
もしあなたが傷つくことがあるとしたら、それは唯一、誰かかがあなたの思うように行動してくれず、思い通りに愛してくれないという時にだけそうなります。それ以外傷つきようがないのです。ですからもし自分の思うような反応をしてもらえず、しかも自分の望むような愛しかたを望んでいるのなら、あなたは愛と喜びの歪みを作り出していることになります。そうしたあなたの歪みは、あなたの持つ歪んだ愛のイメージから出てきます。ですから怒りとは、そうした愛や喜びから切り離されたことから生じてきており、そのゆえにあなたはその怒りの原因を誰か他の人間のせいにするのです。
つまり、もし彼らがあなたの思う通りのやり方で反応してくれていれば、自分はたった今喜びと愛を感じられたはずなのに、彼らがそうしなかったのであなたは彼らによって喜びから切り離されて怒っているというわけです。実は怒りとは喜びの一部なのです。つまり喜びの欠如が怒りであり、あなたは自分の思うようなやり方で誰かから愛して欲しいから、それが他人によって与えられないことで、喜びから切り離されたと思うので腹が立つのです。
Q、 なぜ私たちは喜べないのでしょうか。なぜ人生において怒りやイライラ、ストレス、欠如ばかりを選ぶのでしょうか?
それはあなた方が、限られた連続体だけで機能しているからです。
本来の感情体が100万個の喜びの構成要素を成しているとすれば、あなた方はそのうちまだほんの15から20個くらいしか感じることができないのです。しかしそうした喜びとは果たしてどんな種類の喜びなのでしょうか。
けれども今あなた方の次元には、一度に100から200くらいの喜びの要素を抱え始めるようになった人たちが何人も存在しています。それでも100万のうちの100から200ですから本物の感じからは程遠いことがわかります。つまり喜びのほんの一部分だけしか感じられず知覚できないならば本物には感じられず、そのためにそこから切り離されているという感じが生まれるのです。すべてでなければ、そこから分離していると思うのです。
あなた方の誰もが、喜びがないと不満を言います。
でも喜びはあるのです。それはあなたのうちにあるきらめきです。喜びとは、あなた方みなの中に本来存在する火花を生じさせる周波数なのです。そしてそのきらめきという火花は、喜びの周波数で創られました。あなたの存在の内側にあるあなた自身を成す光の小さな分子こそが喜びであり、それは本来あなたの中に住んでおり、あなたはすでにそれを持っているのです。あなた方は自分に許している分だけ、そうした薄まっている喜びを感じたり、あるいはまったく感じなかったりするのです。
Q、 私たちは自分自身の感情を怖れているのですか?
内気であるとは自分の感情を怖れていることであり、恐れとは連続した生命の一部分です。馴染みのない出来事や状況とあまりかかわりたくないとき、それは恐れを生み出します。その恐れは、真に自分の感情を理解しようとしないところから来ています。そうした感情と向き合わないなら、それは凝り固まり、より一層大きな怖れの複合体となります。内気さとは、自らの感情に入り、ずっとその源にまでたどって行くことの怖れなのです。そこに見出すであろう唯一の究極の感情、それはあなたという実に素晴らしく美しい愛であり、あなた方が否定したがっている愛と喜びであり、それがあなたなのです。
多くの人が未だに自分には価値がない、自分には愛される価値がないと思っています。しかしもしどれほど愛されて、自分の存在が生み出されたかを感じるところまで遡(さかのぼ)るならば、もはやさまざまな言い訳にしがみつけなくなると思っています。自分を存在に至らしめるほどに、大本の根源から愛されたことがまずいことであったかのように、多くの人が感じています。生命の根源はあなたをを愛して存在に至らしめたのに、あなたは拒絶され、追い出されたと感じたのです。そのためにあなた方は駄々をこねる幼い子供のようであり、自分のうちに美を見出すことを望まれているのに、あえてそれをしようとはしないのです。
怒りから、内気さから出るには、怒りがそもそも創られたところを通っていくことで家に帰れるのです。恐れや怒りといったそうした感情まで遡(さかのぼ)り、自分は大丈夫なのだということを知ってください。そうすると引っ込み思案である必要はなくなります。引っ込み思案とは、自分が何かまずいことを言ったりしたりして、うまく振舞えないかもしれないという恐れです。しかしあなたが自分の存在において「OK!大丈夫」であれば、何一つ間違えようがないのです。内気であるとは、「私は自分であることが怖い」というイメージを外の世界に対して見せているのです。
内気さの後ろにある怖れは、人が周りにいるいないにかかわらず、自分自身であることを怖れていることなのです。それは「自分は自分自身であることでOK!」と感じることの怖れです。あなたはその恐れを超えて自分自身に戻ることができるし、そのためには自分はこのままでOKであり、今のありのままの自分でいいのだと感じることから始まるのです。
先入感や偏見に凝り固まっていると、さまざまな可能性はあなたを素通りして行きます。なぜ自分の欲しいものが手に入らないのか、なぜそうした驚きが自分には起こらないのかと思っているかもしれません。なぜ自分にはそうしたことが起こらないのかというと、それは意識的に自分でそうしているからです。明日がどうなるかという先入感ををすでに持っているからです。すでに前もって意識を植え付けているのですから、それ以外のことがどうして起こり得るでしょうか。情緒的にあなたは過去を生きているわけですから、それはあり得ません。過去を振り捨てなさい。先入感や偏見の過去を振り捨てて、明日の朝、自分で新しい朝を感じてみてください。4時半なり5時に起きて、体には何のストレスもなく、自分が本当にしたい仕事に行くのです。
仕事や対人関係、その他どのようなことであっても、誰の人生にも同じようなことがあります。もしそのときの一瞬だけは過去を振り払い、期待を捨て、その瞬間を生きれば、何か新しい楽しいことが人生のすべての瞬間になることでしょう。それが人生を愛することです。人生を愛するとは、人生があなたに何をもたらすかという期待を一切持たないことであり、そうすることで人生を目いっぱい楽しむことができるのです。
あなた方はみな、自分を存在に至らしめるほどに自分のことを愛さなくてはなりません。人生が自分に何をもたらしてくれるだろうか、といった期待を一切持たないところに自分を持っていくのです。明日があなたにもたらしてくれるものに一切の期待をかけないとしたら、それは自分という神の本質を生きることそのものです。しかしながらあなた方は皆、すべて抜かりなく準備しており、20年後、30年後、そして葬式の手はずまですべて整えているのです!
Q、 そうでないと安心できないし、行き当たりばったりとか自発的にというのは難しいのです。
ほとんどの人は脳が心配しなくてもいいように、きちんと予定を立てた生活以外は許さないのです。脳は安全保障を好み、何がどうなるかをちゃんと知っていることで安心するのです。安全とは期待することであり、そうした期待がある限り、決して人生を愛することはないのです。あなた方は誰もが安全さを手放すことを恐れ、自分は決して本来の自分自身という存在にはなれないという思いを手放しません。ですから決して、本来の存在にはならないのです。
あなたというエンティティ(存在)は宇宙を創り、星を創り、太陽を創り、その他すべてを創り、そして破壊することもできるのです。それはヒトという種を創り、また地上のすべての食べ物を創ったというのに、あなたは自分の食卓に食べ物を乗せることを知らないというのでしょうか? あなた方は物ごとを整理したり、準備したりはできるのに、まだソース(源・根源)になることを学んではいません。あなた方は三つのもの、つまりソース(根源)、セルフ(自己)、クリエイター(創造者)でなくてはならないのです。クリエイターの部分はかなりよくやっていますが、しかしセルフとソースはまだ発達させる余地があります。
根源(ソース)であるとは瞬間瞬間に生きることです。
いまやあなたは瞬間を生きる個性も持っており、瞬間は組織することができません。あなたは未来を形成しないように、とりわけ自発的であることを学ばなくてはなりません。そのことがあなたを真の自由から切り離している大きなズレなのです。それは本来の自分自身の存在に対する「降参」と呼ばれます。そうできるようになるまでは、さまざまな心配があなたをどこまでも支配するでしょう。その瞬間瞬間という今があなたにやってくるまでは、それについては何一つ言うことはないかのように見えます。
根源(ソース)は、「はい、私は愛します」というだけです。
それだけなのです。あなた方はみな、この三つのすべてになることを学んでいるのです。つまり一切の期待を持たずに、この宇宙全体を創った部分があなたの面倒を見てくれるだろうと任せられるほどに、生命を十分に愛することを学んでいるのです。
それは「姿勢」という一つの橋であり、だからといって仕事を辞めていろいろ投げ捨てて、ということではありません。ただしそれが障害になっているならば取り上げられることでしょう。そして内なる姿勢は変化し、新たな橋がかり、あなたは生きたエンティティ(存在)となるのです。瞬間に手放すことを学ぶまでは、あなた方は決して何一つ現象化することはできません。ですからそれを学ぶ必要があります。
瞬間に生きるとき、あなたは過去と未来を完全に解放します。
その瞬間は生命そのものであり、その瞬間を自分の創造の部分に入れて現象化するのです。自分を根源の存在に至らしめるほどに愛するとは、瞬間を生きるということです。ただそれだけなのです。愛を見出すであろう唯一の場所、それは今という瞬間瞬間だけなのです。
Q、 それは感じることができます。でも持続できないのです。
そうではないのです! そうなってはいないというところが肝腎なのです。
あなた方はみな、「あぁ、わかった。しっかり手放さないようにしないと」、と言います。数百億、数千億もの瞬間を築いてしがみついたり、決して寄りかかったりしてはいけません。それでは何にもなりません。それでもいいし、またそこから始めることもできますが、瞬間に執着してはいけないのです。そうするとあなたは過去に留まったままになってしまうからです。それは一瞬だったのであり、素晴らしかった。だから次の瞬間もそうしよう、さらに次の瞬間も、というようにするのです。
あなた方という見習い中の神にとって必要な唯一の修行は、その瞬間にすべてを手放すことを学ぶことです。それは生きる姿勢であり、変化であり、その瞬間に自分自身の存在とつながり、「ねぇ、まだ家賃が払えていないんだけど」、と言えるのです。そして実際それを言う必要もないほどそのことを知っており、ちょうど郵便受けに小切手を放り込もうとするところだったかもしれません。このようにしてあなたの面倒を見てくれるのです。でもあなたがあちこち走り回っていたら、それは決してあなたに追いつけないので、欲しいものをあなたに届けることは決してできないでしょう。
つまり、もし彼らがあなたの思う通りのやり方で反応してくれていれば、自分はたった今喜びと愛を感じられたはずなのに、彼らがそうしなかったのであなたは彼らによって喜びから切り離されて怒っているというわけです。実は怒りとは喜びの一部なのです。つまり喜びの欠如が怒りであり、あなたは自分の思うようなやり方で誰かから愛して欲しいから、それが他人によって与えられないことで、喜びから切り離されたと思うので腹が立つのです。
Q、 なぜ私たちは喜べないのでしょうか。なぜ人生において怒りやイライラ、ストレス、欠如ばかりを選ぶのでしょうか?
それはあなた方が、限られた連続体だけで機能しているからです。
本来の感情体が100万個の喜びの構成要素を成しているとすれば、あなた方はそのうちまだほんの15から20個くらいしか感じることができないのです。しかしそうした喜びとは果たしてどんな種類の喜びなのでしょうか。
けれども今あなた方の次元には、一度に100から200くらいの喜びの要素を抱え始めるようになった人たちが何人も存在しています。それでも100万のうちの100から200ですから本物の感じからは程遠いことがわかります。つまり喜びのほんの一部分だけしか感じられず知覚できないならば本物には感じられず、そのためにそこから切り離されているという感じが生まれるのです。すべてでなければ、そこから分離していると思うのです。
あなた方の誰もが、喜びがないと不満を言います。
でも喜びはあるのです。それはあなたのうちにあるきらめきです。喜びとは、あなた方みなの中に本来存在する火花を生じさせる周波数なのです。そしてそのきらめきという火花は、喜びの周波数で創られました。あなたの存在の内側にあるあなた自身を成す光の小さな分子こそが喜びであり、それは本来あなたの中に住んでおり、あなたはすでにそれを持っているのです。あなた方は自分に許している分だけ、そうした薄まっている喜びを感じたり、あるいはまったく感じなかったりするのです。
Q、 私たちは自分自身の感情を怖れているのですか?
内気であるとは自分の感情を怖れていることであり、恐れとは連続した生命の一部分です。馴染みのない出来事や状況とあまりかかわりたくないとき、それは恐れを生み出します。その恐れは、真に自分の感情を理解しようとしないところから来ています。そうした感情と向き合わないなら、それは凝り固まり、より一層大きな怖れの複合体となります。内気さとは、自らの感情に入り、ずっとその源にまでたどって行くことの怖れなのです。そこに見出すであろう唯一の究極の感情、それはあなたという実に素晴らしく美しい愛であり、あなた方が否定したがっている愛と喜びであり、それがあなたなのです。
多くの人が未だに自分には価値がない、自分には愛される価値がないと思っています。しかしもしどれほど愛されて、自分の存在が生み出されたかを感じるところまで遡(さかのぼ)るならば、もはやさまざまな言い訳にしがみつけなくなると思っています。自分を存在に至らしめるほどに、大本の根源から愛されたことがまずいことであったかのように、多くの人が感じています。生命の根源はあなたをを愛して存在に至らしめたのに、あなたは拒絶され、追い出されたと感じたのです。そのためにあなた方は駄々をこねる幼い子供のようであり、自分のうちに美を見出すことを望まれているのに、あえてそれをしようとはしないのです。
怒りから、内気さから出るには、怒りがそもそも創られたところを通っていくことで家に帰れるのです。恐れや怒りといったそうした感情まで遡(さかのぼ)り、自分は大丈夫なのだということを知ってください。そうすると引っ込み思案である必要はなくなります。引っ込み思案とは、自分が何かまずいことを言ったりしたりして、うまく振舞えないかもしれないという恐れです。しかしあなたが自分の存在において「OK!大丈夫」であれば、何一つ間違えようがないのです。内気であるとは、「私は自分であることが怖い」というイメージを外の世界に対して見せているのです。
内気さの後ろにある怖れは、人が周りにいるいないにかかわらず、自分自身であることを怖れていることなのです。それは「自分は自分自身であることでOK!」と感じることの怖れです。あなたはその恐れを超えて自分自身に戻ることができるし、そのためには自分はこのままでOKであり、今のありのままの自分でいいのだと感じることから始まるのです。
先入感や偏見に凝り固まっていると、さまざまな可能性はあなたを素通りして行きます。なぜ自分の欲しいものが手に入らないのか、なぜそうした驚きが自分には起こらないのかと思っているかもしれません。なぜ自分にはそうしたことが起こらないのかというと、それは意識的に自分でそうしているからです。明日がどうなるかという先入感ををすでに持っているからです。すでに前もって意識を植え付けているのですから、それ以外のことがどうして起こり得るでしょうか。情緒的にあなたは過去を生きているわけですから、それはあり得ません。過去を振り捨てなさい。先入感や偏見の過去を振り捨てて、明日の朝、自分で新しい朝を感じてみてください。4時半なり5時に起きて、体には何のストレスもなく、自分が本当にしたい仕事に行くのです。
仕事や対人関係、その他どのようなことであっても、誰の人生にも同じようなことがあります。もしそのときの一瞬だけは過去を振り払い、期待を捨て、その瞬間を生きれば、何か新しい楽しいことが人生のすべての瞬間になることでしょう。それが人生を愛することです。人生を愛するとは、人生があなたに何をもたらすかという期待を一切持たないことであり、そうすることで人生を目いっぱい楽しむことができるのです。
あなた方はみな、自分を存在に至らしめるほどに自分のことを愛さなくてはなりません。人生が自分に何をもたらしてくれるだろうか、といった期待を一切持たないところに自分を持っていくのです。明日があなたにもたらしてくれるものに一切の期待をかけないとしたら、それは自分という神の本質を生きることそのものです。しかしながらあなた方は皆、すべて抜かりなく準備しており、20年後、30年後、そして葬式の手はずまですべて整えているのです!
Q、 そうでないと安心できないし、行き当たりばったりとか自発的にというのは難しいのです。
ほとんどの人は脳が心配しなくてもいいように、きちんと予定を立てた生活以外は許さないのです。脳は安全保障を好み、何がどうなるかをちゃんと知っていることで安心するのです。安全とは期待することであり、そうした期待がある限り、決して人生を愛することはないのです。あなた方は誰もが安全さを手放すことを恐れ、自分は決して本来の自分自身という存在にはなれないという思いを手放しません。ですから決して、本来の存在にはならないのです。
あなたというエンティティ(存在)は宇宙を創り、星を創り、太陽を創り、その他すべてを創り、そして破壊することもできるのです。それはヒトという種を創り、また地上のすべての食べ物を創ったというのに、あなたは自分の食卓に食べ物を乗せることを知らないというのでしょうか? あなた方は物ごとを整理したり、準備したりはできるのに、まだソース(源・根源)になることを学んではいません。あなた方は三つのもの、つまりソース(根源)、セルフ(自己)、クリエイター(創造者)でなくてはならないのです。クリエイターの部分はかなりよくやっていますが、しかしセルフとソースはまだ発達させる余地があります。
根源(ソース)であるとは瞬間瞬間に生きることです。
いまやあなたは瞬間を生きる個性も持っており、瞬間は組織することができません。あなたは未来を形成しないように、とりわけ自発的であることを学ばなくてはなりません。そのことがあなたを真の自由から切り離している大きなズレなのです。それは本来の自分自身の存在に対する「降参」と呼ばれます。そうできるようになるまでは、さまざまな心配があなたをどこまでも支配するでしょう。その瞬間瞬間という今があなたにやってくるまでは、それについては何一つ言うことはないかのように見えます。
根源(ソース)は、「はい、私は愛します」というだけです。
それだけなのです。あなた方はみな、この三つのすべてになることを学んでいるのです。つまり一切の期待を持たずに、この宇宙全体を創った部分があなたの面倒を見てくれるだろうと任せられるほどに、生命を十分に愛することを学んでいるのです。
それは「姿勢」という一つの橋であり、だからといって仕事を辞めていろいろ投げ捨てて、ということではありません。ただしそれが障害になっているならば取り上げられることでしょう。そして内なる姿勢は変化し、新たな橋がかり、あなたは生きたエンティティ(存在)となるのです。瞬間に手放すことを学ぶまでは、あなた方は決して何一つ現象化することはできません。ですからそれを学ぶ必要があります。
瞬間に生きるとき、あなたは過去と未来を完全に解放します。
その瞬間は生命そのものであり、その瞬間を自分の創造の部分に入れて現象化するのです。自分を根源の存在に至らしめるほどに愛するとは、瞬間を生きるということです。ただそれだけなのです。愛を見出すであろう唯一の場所、それは今という瞬間瞬間だけなのです。
Q、 それは感じることができます。でも持続できないのです。
そうではないのです! そうなってはいないというところが肝腎なのです。
あなた方はみな、「あぁ、わかった。しっかり手放さないようにしないと」、と言います。数百億、数千億もの瞬間を築いてしがみついたり、決して寄りかかったりしてはいけません。それでは何にもなりません。それでもいいし、またそこから始めることもできますが、瞬間に執着してはいけないのです。そうするとあなたは過去に留まったままになってしまうからです。それは一瞬だったのであり、素晴らしかった。だから次の瞬間もそうしよう、さらに次の瞬間も、というようにするのです。
あなた方という見習い中の神にとって必要な唯一の修行は、その瞬間にすべてを手放すことを学ぶことです。それは生きる姿勢であり、変化であり、その瞬間に自分自身の存在とつながり、「ねぇ、まだ家賃が払えていないんだけど」、と言えるのです。そして実際それを言う必要もないほどそのことを知っており、ちょうど郵便受けに小切手を放り込もうとするところだったかもしれません。このようにしてあなたの面倒を見てくれるのです。でもあなたがあちこち走り回っていたら、それは決してあなたに追いつけないので、欲しいものをあなたに届けることは決してできないでしょう。