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「一瞬」の根底にこそ喜びと興奮がある

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「一瞬」の根底にこそ喜びと興奮がある

   自分自身に留まるとは、自分を裁くことをやめてありのままの自分でいることです。
   自分であるために、これほど自分との親密な方法がほかにあるでしょうか。多くの人々が、自分自身であるための方法はこういうものだといった考えをさまざまに持っています。自分自身であるとは、単に一つの生き方であって何も特別なものではありません。ただそう在るだけのことです。

   つまり自分自身に100%満足し、他の誰からも承認を必要とせずに完結して、満足を感じられることです。あなたは誰からも認められたり、素晴らしいと言ってもらう必要がなく、自分はこの自分でいいのだと、ただわかるのです。それは自分を批判したり裁かないことからしか得られないものです。もしも、「私は人からの承認もサポートも必要ない。私はこのままでOKですから」と言うのであれば、おそらくあなたはOKではないでしょう。なぜなら「自分はOK」だと言わなければならないからです。

Q、  それは自分自身と関係を持たないといったようなことですか?

   そうです。
   
つまり、ああなりたい、こうなりたいと考え、試みているうちは、自分自身ではあり得ないのです。しかし多くの人々は、「私はここに座って自分と向き合うぞ」と言うのです。ですからそのために自分を二つに分けなければなりません。誰もが自分自身と関係を持っているようですが、ということは自分自身を分けているということです。

   究極的に自分自身を愛する状態とは、自分に対して意地悪をやめることです。
   つまり、「こうすれば良かった。ああすればよかった」と言わないことです。誰だって一日中、自分に不満ばかり言っていたり、あるいは親からそんなことばかり言われていたら、親なんて大嫌いになっているはずではありませんか? そして多くの人が、どんな暴君よりもひどい態度で自分自身に対して暴力をふるってきたのです。

   自分自身を愛するとは、突き詰めれば基本的に何でもないことになります。
   もしあなたが何ものかであるとしたら、どうやってあなた自身で在るのですか? そんなことはあり得ないことになります。それがわかると、実に拍子抜けするほどシンプルなことなので、「何て自分は間抜けなんだろ!」と言うことでしょう。自分自身であるとは、ただ何一つしないことなのです。何一つとして!です。


Q、  その人がただ在り、自分自身とも関係を持たず、何ものでもなく、自分自身を親密に分かち合っているとき、その人はどういう状況にあるのですか?

   
安らぎです。
   それを退屈だと思う人もなかにはいるでしょう。あなたがそういう状態にいると、あなたから確認や反応を得ようとしている人々は困惑するでしょう。おそらく、なんと横柄で生意気な、無知で意地悪で、自己中の気取った人かと思われることでしょう。なぜならあなたが、彼らがいかに素晴らしいかを言ってあげなかったからです。しかし一方で、あなたからただサポートだけを求めている人は、あなたに大いなる慰めを見出すでしょう。なぜならあなたは、自分自身からも何も期待していないので、彼らに対しても何一つ求めないからです。

   自分自身であること。
   バラの花はどのようにしてバラ以外のものであり得るでしょうか? 自然の状態においてそういうことはあり得ません。もし自分自身でありたければ、あるいは完全な存在でありたければ何もしなくていいのです。いかなる修練も不要です。練習の必要もありません。唯一しなくてはならない訓練は、自分が自分の邪魔にならないように道を空けることです。

   いかなる期待も持たないこと。
   「もし自分が自分自身であれば」とか、「神であればこうあるべきでは」というのがないこと。「神であればこうあるべき」という期待をほとんどの人が持っています。そして自分が神であるのならどうあるべきか、というのも知っています。つまり、「神とは何か」という期待を抱いていることが問題なのです。

   その状態において彼らは何ものでもありません。
   たとえばあなたが一緒にいて、誰よりも楽しい人たちというのはどんな人たちでしょうか? 自分の思うように期待が満たされていないために、不満そうな顔をしている人でしょうか? それとも、あまりにも何ものでもないために、心が望むことをするだけで何の期待も抱いていない人でしょうか? 私たちができうる最大のこと、それは楽しむことです。あなたが楽しんでいない理由、それは実は大きな問題なのですが、何かしら期待を持っていることが原因なのです。

   自分が、「あの時は楽しかった!」と言えない時というのは、何らかの期待があってその通りにならずそうできなかったからなのです。自分は神ではないから楽しめないというわけです。神は何ら期待することなく、ゆえにすることのすべてが一瞬一瞬が新鮮で、自由で、喜びに満ちて・・・、そうなったらどんなに楽しいでしょうか! 「もちろん私はそう思うけど、神々は楽しみ以外のことをするのを知らないから・・・」、というのがあなたの解釈でしょう。

   あなたの人生の毎日のすべてが楽しみではないとすれば、それは自分の思うようにならない期待があったからです。ですから楽しくないのは自分の責任なのです。もし期待を持たなければ、毎日が、毎瞬が、新しい体験になるでしょう。あなたには好奇心があります。5分後には何が起きるかわからないとしても、5分後にはそれがわかるので、そんなことはどうでもいいと思うでしょう。それよりもいまのこの一瞬のほうがよほど大切であり、あなたはたったいまここにとどまり、永遠の現在に生きるのです。

   いまという瞬間にいるなら何の問題も持ち得ません。
   いまに在るなら、痛みもないでしょう。なぜなら痛みというのは、その前の瞬間から遅れて持ち越されているものだからです。いまにいれば、苦しみというのもあり得ないのです。何一つあなたを縛るものも、しがらみもありません。そうするとあなたはいま、究極の、無限の自由を手に入れることになるのです。「言われてみるとそうかもしれない。でもあまりに自然体というか・・・」、とつぶやきが聞こえてきます。

Q、  期待というのはどこからやって来るのでしょうか?

   
楽しんでいる時、5分後のことが気になり始め、「もっと楽しくなるかも」と思うやいなや、「いま」という時からすり抜けてしまいます。今という瞬間から抜け出るやいなや、必ず問題が起き始めます。つまりあなたの人生が喜びや楽しみ、自由、無制限でいっぱいでないときというのは、必ず一瞬一瞬を生きてはいないからなのです。

   そしてこれはもっとも難しいレッスンでもあります。
   あなた方はみな、一生懸命、苦労して頑張って、それで自分が何かやったと確認したいのです。もちろん誰でも、何もないという状態にいたくないのはわかります。でも、やってみてください。そうすれば、決して後戻りできなくなることを保障します!

   あなたが「いま」という瞬間を生きるなら、そこには何らの意図もありません。
   なぜなら意図というのは、その瞬間でないときに設定するものであり、それはあなたが感じている喜びを取り上げ、整理しようとします。整理すると必ずや例外なしに、いつも喜びから離れてしまいます。つまり、常に十分な喜びがあることを確かめるために自分自身を脇へ呼び出し、整理し、区分けしているわけであり、それはいわば欠乏なのです。

   いまこの瞬間を生きているなら、他には何も存在せず、それは一つの姿勢です。
   しかし意図は期待であり、それは瞬間からあなたをはじき出し、未来モードに切り替え、なおかつ過去とつながり、そうすることで決して「いま」という時を楽しむことがないのです。もしあなたの人生がみじめで楽しくないのであれば、それはあなた自身のせいなのです。そう言われるのが好きな人は誰もいないことは知っていますが・・・。

   たった「いま」がそのときなのです。
   この瞬間、たったいまだけにフォーカスすると、他のすべては空(くう)となり、そして意識の推移が起きるでしょう。それができるようになり、一瞬一瞬が連続してそうなっていくと、あなたは急速に変わっていくでしょう。さまざまな問題から解放され、あなたの人生は喜びとなるでしょう。あるのは、「たったいまのこの瞬間だけ」という感情的感覚になるでしょう。そしてそれは、学び得る他のどんなことよりも価値のある道具となるでしょう。その他のあらゆる体験はすべて、ただ単にこの一つのことを教えるためにあるのです。

   いまあるこの一瞬だけ、この瞬間を引き伸ばそうとしてみてください。
   それは今だけなのであり、その瞬間、あらゆる問題は去るでしょう。そしてその根底にこそ喜びと興奮があるのです。

   興奮と期待は違うものです。
   喜びのレベルが上がると、人生は興奮となります。唯一しなくてはならないことは、その興奮を瞬間から次の瞬間へと持ち越すことだけです。今のこの瞬間を感じてみてください。するとそれ以外のものは何ら存在しなくなることがわかります。それを自分で引き伸ばし、手放してください。そして次の瞬間もそうするのです。

   いまほとんどの人は、意図という計画を目標として用いています。
   しかしどんなことであれ物ごとを現象化するために一番早い方法は、意図を未来に入れてそこに落とし、そのまま無視しておくことです。するとどの瞬間もあなたが設定した方向のところへあなたを連れていくでしょう。自分自身であるとは、それ以外在りようがないことなのです。

Q、  しかし義務や仕事があって、一定の時間そこにいなければならない、あるいはある時間内にしなければならないことがある場合、瞬間から瞬間という生き方ができるのでしょうか?

   
もっと容易に、かつもっとうまくそれができるようになるでしょう。
   まず何事にも執着しない状態になるので、これまでになく効率よく自分の義務が果たせるようになります。「忘我の境地」といったことではなく、その瞬間に生きるならば、仕事をしながらみじめというようなことには決してならないのです。つまり毎瞬毎瞬が今となり、そうなれば職場の上司や同僚などとの過去のトラブルなどを引きずって、その延長線上にいることはなくなるのです。

   その瞬間瞬間には喜びがあります。
   そうした瞬間瞬間が重なり合い、すべてが喜びとなります。その瞬間、あなたはその時を生きています。そうすると周囲の人がどんなことをしていようが、自分と同じように他の人もおかしなゲームを楽しんでいると見られるようになります。そうした境地になると、今度はかつてなく人々と一緒にいたいと望むようになるでしょう。

   万物は神から生まれたものであり、そして実は自分も神であることをまだ知らないふりをしている人々の中に、神を見出すことが実に楽しくなるのです。いつでもそれを見出すことができるし、彼らもまた深いところではそれがわかっているのです。そのようにして、あなた方みんなのマインドがすべてをともに織り成し、つくり上げていくのを見ながら、あなたの人生には素晴らしい興奮とスリルが起きてくるでしょう。

   その瞬間に生きるということは、物ごとに無責任になるということではありません。
   一瞬一瞬を生きるようになると、人生に向き合う姿勢が変わります。つまり、「上司はいい加減だし、ロクな給料をもらってないのに、出社が7時だなんて・・・」、といったそうした考えは一切持たずに、その瞬間を生きるのです。それはあなたの生きる姿勢の問題であり、どの瞬間もそれぞれが異なる一瞬であり、スリルであるという姿勢へのシフトなのです。


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