「吉田茂」という人物の真実
孫崎 重光葵の次に在日米軍の問題に取り組んだのは、意外に思われる方がいるかもしれませんが岸信介首相でした。岸信介は対米従属派というようなイメージがありますが、実は対米自主派なのです。1960年の安保改訂ではあそこまでしかいけなかったのですが、次に焦点を合わせて、条文の中にいろいろな要素が埋め込まれたのです。重要な要素の一つは、国連憲章というものを全面に押し立てていることです。これによって、日本は国連憲章に違反するような、米国の行動にはついていかないという枠組みを作ったわけです。さらに10年経ったら見直し・改訂ができるということにしたのです。
日米関係にとって安保条約以上に重要なものが日米地位協定なのですが、日米行政協定を(1951年に調印)をやめて、新たに日米地位協定を作り、この問題に手をつけたのも岸信介です。しかし彼の後、安保条約を本格的に改訂しようとした首相はいません。逆に言えば米国は、岸信介の存在を非常に嫌がったと思います。
鳩山 米国から何らかの反応があったのですか?
孫崎 それが安保反対のデモです。
最初は安保反対のデモでしたが、最終的には岸内閣打倒のデモに変質していったことにも現れています。
植草 安保反対のデモに対して、アメリカからお金も出ていましたからね。
孫崎 CIAなどから直接お金が出ていたケースもあるようですが、多くは米国の意向を汲んだ企業から反対運動をしていた全学連にお金が出ていました。右翼の黒幕といわれた田中清玄(せいげん)氏(CIAのエージェント説も濃厚)を通して、全学連書記長の島成郎(しげお)氏に多額のお金が流れていたことについては、後に本人たちもそれを認めています。田中清玄が、全学連の島に引き合わせたといわれる業界人には電力業界のドンと言われた松永安左ェ門をはじめ、製鉄、製紙、石油のトップなど、多くの財界人がいました。これらの人から全学連にお金が出ていたことは、当事者たちが自分で書いていますから確かなことだと思います。
植草 岸信介の後、米国は再び吉田茂を首相にしようとしたのですが、吉田は池田勇人(はやと)を首相に立てましたね。そういう意味で吉田茂はずっと米国とつながっていたと言えます。話は少し横道にそれますが、吉田茂は2歳の時に吉田健三の養子になり、横浜で育つのですが、その養父の吉田健三はジャーディン・マセソン商会の横浜支店長をしていた人なんです。
歴史をさかのぼってみますと、明治維新の成立に裏からさまざまな影響を与えたグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店でした。そのジャーディン・マセソン商会とは何かといえばイギリスの武器商人であり、アヘン戦争を仕組んだことで有名な死の商人なわけです。イギリスがアジアを植民地支配するための実働部隊として送り込んでいたのが、ジャーディン・マセソン商会であったと見られています。・・・。
明治維新というのは我々日本人の手によって成し遂げられたように語られていますが、実は金融資本を中心にした欧米の支配勢力により、裏からさまざまな支援が行なわれた結果生まれたものなのです。生麦事件を背景にした薩英戦争があり、その後イギリスが維新政府の裏から手を回してゆく時、そうした動きの中心にいたのがジャーディン・マセソン商会であり、後の時代にそのジャーディン・マセソン商会の横浜支店長になったのが吉田茂の養父・吉田健三です。吉田茂のバックにはこうした流れがあったことは、押えておくべきことだと思います。
孫崎 私は非常に面白いと思うのは、吉田茂という人は登場した時から、いまのように崇められていたわけではないということです。同時代の人々は吉田茂に対して、非常に厳しい見方をしています。ですからそういう意味でいま我々が持っている吉田茂像は、多分に作られた吉田茂像なわけです。その吉田茂像を作るために中心になったのが、高坂正尭(こうさかまさたか・元京都大学教授 1996年没)さんです。彼は吉田茂を宰相として崇め、「米国にもの申せる人」「日本を戦後復興に導いた人」という形で積極的に評価した。これは吉田茂個人の積極評価に留まらず、吉田に続く池田勇人など、安全保障における対米従属路線を引き継ぐ人たちを積極評価するためであったのです。
NHKで、吉田茂再評価のドラマ『負けて勝つ』を放映しましたが、これも高坂正尭がしたのと同じテーマを繰り返しているわけです。そしてドラマの構成としての最終的な結論は、本当の日本にとって正しいことを知っているのは、首相である吉田茂であるとし、つまりは現実主義という形で対米従属を正当化するわけですね。
現在の視点から吉田茂を評価するとしたら、その最大のポイントは安保条約、日米行政協定(のちの日米地位協定)という、極めて屈辱的な条約を結び、植民地的な在日米軍のあり方を許した点にあるのではないでしょうか。あの時点において、あのような協定をのむ以外なかったのかといえば、そうではなく他の選択肢はあったと私は思っています。
実はその当時、外務省の事務方を中心に別の選択肢を考えていたのですが、吉田茂は池田勇人、宮澤喜一らを使い、むしろ進んでこのような状況を選んだのだと思います。その宮澤喜一でさえが、「こんな内容では、講和条約を結んで独立する意味がないじゃないか」と言うほどの行政協定を結んでしまったことは、いまから考えても大変に残念なことです。
これは元外務官僚の寺崎太郎氏(日米開戦時のアメリカ局長、敗戦時の外務次官)が言っていたことですが、一連の取り決めの中で何が重要であるかの順番について、一に行政協定、二に安全保障条約、三に講和条約だというのです。その行政協定の内容は、ダレスが考えた「我々は望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間駐留させる」というものでした。この在日米軍のあり方が日米関係の最大の歪みになっており、その歪みが今現在にいたるまで続いているのです。
NATOにおける米軍の地位がどのようになっているのかと比較してみるならば、日本における日米関係の歪みは明らかなことです。行政協定によれば、あらゆることが米軍最優先であり、たとえば水道料金や電気代といったものまでが、地方自治体よりも米軍のほうが優遇されている始末です。
植草 サンフランシスコ講和条約には、講和が発効し、日本が独立を回復した時点で駐留軍は撤退するという規定があります。それには但(ただ)し書きがあって、別の規定がある場合はこの限りではないと書かれています。その但し書きと安保条約・日米行政協定がセットになっていると思うのですが、この講和条約が締結された時点において、米国は半永久的に日本の米軍基地を維持することを念頭においていたのでしょうか? あるいは暫定的な措置として米軍の駐留を考えていたのでしょうか?
孫崎 基本的には、米国は長期的に米軍基地をおくことに何の不安もなかったはずです。と言いますのは、池田勇人、宮澤喜一が米国に行った時のミッションは、日本側から米軍に「駐留してください」と言いに行くことだったのですから。
植草 進んで米軍の駐留を受け入れるという吉田茂の判断には、昭和天皇の意向が反映されていたとする見方についてはどうお考えになりますか?
孫崎 昭和天皇の意向は、非常に強くあったと思います。
植草 昭和天皇と吉田茂が会って、直接話しをしていると考えていいのですか?
孫崎 いいと思います。
表面的には、吉田茂は日米安保、、米軍駐留の一番の推進者であったと思われていますが、それ以上に米軍駐留推進者であったのが、昭和天皇だと思われるからです。1955年8月、外相の重光葵はダレス米国務長官との会見のため米国に行くにあたり、昭和天皇に内奏(報告)しにゆくのですが、その時天皇は、「米軍撤退はダメだぞ」と念を押しておられますから。
鳩山 内奏の内容というのは本来、表にはでないものだと思うのですが、どこから出てきたのでしょうか?
孫崎 これは『戦後史の正体』にも書きましたが、重光葵の日記(『続・重光葵日記』中央公論社刊)に書かれていることなんです。
植草 そういった日記は、本人は公開しないつもりで書いているものなんですか? それともある程度、後世に残そうと思って書いているものなんですか?
孫崎 残そうと思って書いていると思いますね。
ここには、「8月20日、渡米の使命について細かく内奏し、陛下より駐留軍の撤退は不可であること、また知人への心のこもった伝言を命ぜられた」と書いてあります。
植草 昭和天皇が米軍の駐留にこだわられたのは、それがなければソ連からの侵攻を受けやすくなるといったことを考えられたのでしょうか?
孫崎 そこまでではなく、単純化して申し上げれば、やはり米軍によって自分の身分や命が守られたことが大きかったのだと思います。
日米関係にとって安保条約以上に重要なものが日米地位協定なのですが、日米行政協定を(1951年に調印)をやめて、新たに日米地位協定を作り、この問題に手をつけたのも岸信介です。しかし彼の後、安保条約を本格的に改訂しようとした首相はいません。逆に言えば米国は、岸信介の存在を非常に嫌がったと思います。
鳩山 米国から何らかの反応があったのですか?
孫崎 それが安保反対のデモです。
最初は安保反対のデモでしたが、最終的には岸内閣打倒のデモに変質していったことにも現れています。
植草 安保反対のデモに対して、アメリカからお金も出ていましたからね。
孫崎 CIAなどから直接お金が出ていたケースもあるようですが、多くは米国の意向を汲んだ企業から反対運動をしていた全学連にお金が出ていました。右翼の黒幕といわれた田中清玄(せいげん)氏(CIAのエージェント説も濃厚)を通して、全学連書記長の島成郎(しげお)氏に多額のお金が流れていたことについては、後に本人たちもそれを認めています。田中清玄が、全学連の島に引き合わせたといわれる業界人には電力業界のドンと言われた松永安左ェ門をはじめ、製鉄、製紙、石油のトップなど、多くの財界人がいました。これらの人から全学連にお金が出ていたことは、当事者たちが自分で書いていますから確かなことだと思います。
植草 岸信介の後、米国は再び吉田茂を首相にしようとしたのですが、吉田は池田勇人(はやと)を首相に立てましたね。そういう意味で吉田茂はずっと米国とつながっていたと言えます。話は少し横道にそれますが、吉田茂は2歳の時に吉田健三の養子になり、横浜で育つのですが、その養父の吉田健三はジャーディン・マセソン商会の横浜支店長をしていた人なんです。
歴史をさかのぼってみますと、明治維新の成立に裏からさまざまな影響を与えたグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店でした。そのジャーディン・マセソン商会とは何かといえばイギリスの武器商人であり、アヘン戦争を仕組んだことで有名な死の商人なわけです。イギリスがアジアを植民地支配するための実働部隊として送り込んでいたのが、ジャーディン・マセソン商会であったと見られています。・・・。
明治維新というのは我々日本人の手によって成し遂げられたように語られていますが、実は金融資本を中心にした欧米の支配勢力により、裏からさまざまな支援が行なわれた結果生まれたものなのです。生麦事件を背景にした薩英戦争があり、その後イギリスが維新政府の裏から手を回してゆく時、そうした動きの中心にいたのがジャーディン・マセソン商会であり、後の時代にそのジャーディン・マセソン商会の横浜支店長になったのが吉田茂の養父・吉田健三です。吉田茂のバックにはこうした流れがあったことは、押えておくべきことだと思います。
孫崎 私は非常に面白いと思うのは、吉田茂という人は登場した時から、いまのように崇められていたわけではないということです。同時代の人々は吉田茂に対して、非常に厳しい見方をしています。ですからそういう意味でいま我々が持っている吉田茂像は、多分に作られた吉田茂像なわけです。その吉田茂像を作るために中心になったのが、高坂正尭(こうさかまさたか・元京都大学教授 1996年没)さんです。彼は吉田茂を宰相として崇め、「米国にもの申せる人」「日本を戦後復興に導いた人」という形で積極的に評価した。これは吉田茂個人の積極評価に留まらず、吉田に続く池田勇人など、安全保障における対米従属路線を引き継ぐ人たちを積極評価するためであったのです。
NHKで、吉田茂再評価のドラマ『負けて勝つ』を放映しましたが、これも高坂正尭がしたのと同じテーマを繰り返しているわけです。そしてドラマの構成としての最終的な結論は、本当の日本にとって正しいことを知っているのは、首相である吉田茂であるとし、つまりは現実主義という形で対米従属を正当化するわけですね。
現在の視点から吉田茂を評価するとしたら、その最大のポイントは安保条約、日米行政協定(のちの日米地位協定)という、極めて屈辱的な条約を結び、植民地的な在日米軍のあり方を許した点にあるのではないでしょうか。あの時点において、あのような協定をのむ以外なかったのかといえば、そうではなく他の選択肢はあったと私は思っています。
実はその当時、外務省の事務方を中心に別の選択肢を考えていたのですが、吉田茂は池田勇人、宮澤喜一らを使い、むしろ進んでこのような状況を選んだのだと思います。その宮澤喜一でさえが、「こんな内容では、講和条約を結んで独立する意味がないじゃないか」と言うほどの行政協定を結んでしまったことは、いまから考えても大変に残念なことです。
これは元外務官僚の寺崎太郎氏(日米開戦時のアメリカ局長、敗戦時の外務次官)が言っていたことですが、一連の取り決めの中で何が重要であるかの順番について、一に行政協定、二に安全保障条約、三に講和条約だというのです。その行政協定の内容は、ダレスが考えた「我々は望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間駐留させる」というものでした。この在日米軍のあり方が日米関係の最大の歪みになっており、その歪みが今現在にいたるまで続いているのです。
NATOにおける米軍の地位がどのようになっているのかと比較してみるならば、日本における日米関係の歪みは明らかなことです。行政協定によれば、あらゆることが米軍最優先であり、たとえば水道料金や電気代といったものまでが、地方自治体よりも米軍のほうが優遇されている始末です。
植草 サンフランシスコ講和条約には、講和が発効し、日本が独立を回復した時点で駐留軍は撤退するという規定があります。それには但(ただ)し書きがあって、別の規定がある場合はこの限りではないと書かれています。その但し書きと安保条約・日米行政協定がセットになっていると思うのですが、この講和条約が締結された時点において、米国は半永久的に日本の米軍基地を維持することを念頭においていたのでしょうか? あるいは暫定的な措置として米軍の駐留を考えていたのでしょうか?
孫崎 基本的には、米国は長期的に米軍基地をおくことに何の不安もなかったはずです。と言いますのは、池田勇人、宮澤喜一が米国に行った時のミッションは、日本側から米軍に「駐留してください」と言いに行くことだったのですから。
植草 進んで米軍の駐留を受け入れるという吉田茂の判断には、昭和天皇の意向が反映されていたとする見方についてはどうお考えになりますか?
孫崎 昭和天皇の意向は、非常に強くあったと思います。
植草 昭和天皇と吉田茂が会って、直接話しをしていると考えていいのですか?
孫崎 いいと思います。
表面的には、吉田茂は日米安保、、米軍駐留の一番の推進者であったと思われていますが、それ以上に米軍駐留推進者であったのが、昭和天皇だと思われるからです。1955年8月、外相の重光葵はダレス米国務長官との会見のため米国に行くにあたり、昭和天皇に内奏(報告)しにゆくのですが、その時天皇は、「米軍撤退はダメだぞ」と念を押しておられますから。
鳩山 内奏の内容というのは本来、表にはでないものだと思うのですが、どこから出てきたのでしょうか?
孫崎 これは『戦後史の正体』にも書きましたが、重光葵の日記(『続・重光葵日記』中央公論社刊)に書かれていることなんです。
植草 そういった日記は、本人は公開しないつもりで書いているものなんですか? それともある程度、後世に残そうと思って書いているものなんですか?
孫崎 残そうと思って書いていると思いますね。
ここには、「8月20日、渡米の使命について細かく内奏し、陛下より駐留軍の撤退は不可であること、また知人への心のこもった伝言を命ぜられた」と書いてあります。
植草 昭和天皇が米軍の駐留にこだわられたのは、それがなければソ連からの侵攻を受けやすくなるといったことを考えられたのでしょうか?
孫崎 そこまでではなく、単純化して申し上げれば、やはり米軍によって自分の身分や命が守られたことが大きかったのだと思います。