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自分の気持ちや感情に反して行動する時、自己否定感が起きる

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自分の気持ちや感情に反して行動する時、自己否定感が起きる

   内気さとは、回りの世界に対する個人のとる防御メカニズムです。
   つまり、敏感で、深く感じてしまう人にとって、内気さは自分を守る一つの形態であり、自分の敏感さから自分を守ろうとしているのです。ごく敏感な人というのは、実はとても感じやすく、周囲にいる人たちの感情までも拾ってしまうのです。そのため自分では手に負えないと感じてしまうため、内気さがその対処法となり、他人の感情と強烈さから逃れる一つの方法なのです。

   その内気さは、個人の成長と進化の道具となりうる一方で、人生から逃避するために使われることがあります。多くの人々が自らのそうした敏感さをマスターすることなく、別の方法で対処しようとします。内気な姿勢もその一つで、そうした防御的な態度がその対処法です。アルコールや精神薬などを使って自らの感じやすさから逃げる人や、中には感情的な怒りを用いる人もいます。

   あなた方は本来みんな、とても敏感な存在なのです。
   つまりこの惑星の社会にあって、敏感さゆえにみな辛く、痛い、ヒリヒリした思いをしているのです。そのために感じないでいられるように、痛みにバンドエイドを貼ったり、何かで隠したり、変装させたりして、自らの痛みを何とか癒そうとしています。それが、内気さであり、恥ずかしがりであり、気の弱さ、アルコールや薬物依存であり、その外あらゆる依存が感情を隠すために使われます。

   自分自身の存在の深みに入り、そこにあるものを感じて外に表現できれば、敏感な部分の自分と対処することを学ぶことができます。それによって、他人の中にあるそうした部分に対してもどう対処するかを学び、内気さを翻(ひるがえ)すことができるのです。自分がどの程度心を開いているかのレベルについて、また自分の感情や敏感さについて向き合うことから逃げている限り、ましてや他人とは関わりたくはないものです。自分自身の敏感さに対処できなければ、他人のそうしたことにも対処できず、自分を閉じて逃げ、そうした関わりに一線を引きます。内気さとは、そうしたことと向き合わずに済むようにする方法なのです。

   つまり、「そうした自分の感情と向き合いたくないから、自分の焦点を変える」と言っているわけです。そしてフォーカスを変え始めると、内気さはそうした現実や感情に集中しないで済むように一つの変性意識の状態をもたらします。そして肉体、意識、感情体の仕組みがこの物質界におけるやりとりに反応しないで済むようにするのです。それが内気さの主な状態であり、誰でもが時々そうしています。

   その他の状態としては、自分自身も含めて人の自我(エゴ)から逃げることです。
   たとえば誰かとともにいて、彼らのエゴがあなたに何かを強要しているとします。あなたはそれに関わるとあまりにも自分が感じやすくなるので、自分を閉じて逃げようとし、あまり近寄らないようにします。すると人はあまり要求しなくなるのですが、その結果、とっつきにくい、よそよそしい、無関心だ、無礼な人だと思われたりします。このよそよそしいとか近寄り難く見せているのは、この内気さなのです。そうすれば強要されずに済むので、多くの人がこの状態の内気さを使っています。つまり、一線を引くわけです。

   そうした感じやすさをシャットアウトするために、アルコールや精神薬で対処しようとすることもあります。あるところまで感じやすさがオープンになると、霊的な遺伝子構造のゆえに、感じやすさにフタができない人もいます。後戻りもできず、閉じることもできず、常に敏感な感じやすい状態にいるわけです。それでどう対処していいかわからずに、何とかしなくてはということで向精神薬を乱用したりするのです。

   自分が感じやすく、また周囲の感じやすさもわかり、しかもそうしたことと関わりたくない時、自己に対する否定感が起きてきます。自分がオープンになって気づくようになると、人の痛みや辛さなどの感情を拾ってしまうようになります。しかしなぜ拾ってしまうかといえば、それは自分の問題でもあるからです。つまり他人とは自分を映し出す鏡なので、他人の中に自分の課題を見つけてしまうのです。それを自分のクリアするべき課題だと認識できないうちは、それを映し出してくれる他人から、そして自分から逃げ続けることになります。

   そこで自己否定感が出てきます。
   自己に対する否定感は、自分のハートや感情に反して何かをするときに必ず出てくるものです。「自分はそう感じてはいない。それは本当は自分じゃないんだ」、と自分の感情や気づきを否認し始めると、自分の中に二極性が生まれます。つまり、本当の自分であるものを否定するのです。自分のハートはしっかり感じて気づいているのに、一方で「いや違う。こんなふうに感じてはいけない。感じないぞ」と言うのです。そして自分の肉体という存在の中に二極性つまり分裂が起こり、罪悪感が生まれます。この罪悪感が自己否定の感情なのです。自分の心が感じて気づいているのに、それに反して何か否認するようなことをするときに必ず自己否定感になります。

   あなたは仕事もでき、人間関係もしっかり持てるのに、対外的には「いいえ、できません」と言います。多くの人がそれを謙遜の態度と思うようですが、実はそれは否認の一つの形であり、自己否定感なのです。それが怒りになることもあります。自己否定と怒りが一つになることがあります。そうした否認が存在の内側で、自分に対する自己否定、無価値感を生むようになります。

Q、 内気さ、自己否定感、無価値感といったものは、感じやすい人が比較や競争や決めつけなどにさらされるために起きるのでしょうか?

   
自分を防御する姿勢は、すべて敏感さ、感じやすさからきています。
   つまりすべての人が感じやすいと言うことができますが、他の人々は自分の敏感さを別の方法で対処しています。ある人は怒りの感情を用いますが、それを用いない人に対して怒りの人は、自分の感じやすさを護るために強気の姿勢で臨むので、そうでない人は内気に見えることになります。

   皮肉を言ったり、議論するようなこと、防御的否認も含めて、そうしたすべての態度は自らの感じやすさを隠すためのものです。それによって、自分が実際に感じているものを意識せず感じないようにするのです。自分のハートが感じているものを感じたくないから、また心を開いて自分に向き合いたくないために、あらゆる表現、手段を用いてそうしないようにするのです。多くの人々は怒りを用います。もしあなたが自分の感じやすさを、内側にではなく外側に怒りとして現すとします。しかし相手の人々は怒りを用いたくない場合、あなたの怒りは感じやすい人々を怒りの世界にさらすことになります。

   多くの人々はそうした感じやすさという感情をもてあまし、対処することに困難を感じるあまり、アルコールや向精神薬などを使って逃避するのです。


Q、 私たちの多くが心の底で感じている、「自分には価値がない」という感じは、どこから来るのですか?

   
自分には価値がないという深い感情はみな、原初の分離、つまり太源から分離したことで生まれたものです。それが同時に、あなた方がとても敏感で感じやすいという理由なのです。あなた方は本来が一つの存在であり、一つの全体であったものから分離して、自己というそれぞれの別個の存在となり、異なる体験ができるようになったのです。あなた方は一つの全体であり、それはみなが派生したところの太源である核のようなものです。つまり、太源が感じることは何であれ、その全体が同じように感じるのです。

   全体の全体は、常にあらゆる感情を感じているわけです。
   ですからみんなが感じないのに、あなただけが何かを感じるというような分子は本来あなたの中には存在しません。あなたが何かを感じると、それは必ず外に出ていきます。つまりそれはいわば大衆の感情バンクのようなものであり、すべての人がそこにつながっています。そのようにして意識のゲシュタルト、つまり一つのつくり上げられた意識の総体の多くは機能しています。

   あなた方はみな、一つの感情体であり、あなたはそれが個別化した分子なのです。
   全体でもあるあなたは常に、こうした小さな分子たちを感じています。あなた方は自分の存在と向き合うために、それに対処できるようにするために感情を締め出します。それで多くの人々はいつも、自分はどこかで何か別のことを感じている、と思うのです。

   メカニズムとしては、実はあなた方はいつも同じことを感じているのです。
   なぜなら、あなた方はみな一つの太源から出ているからであり、その太源が全体として感じることを、あなた方も常に一貫して個々に感じているのです。そこにはまったく区別はありません。たとえば一人が喜びの中にあり、別の人が落ち込んだ気分の中にあるとしても、もしあなたがそうしたものの根底にある根っこの感情を探るならば、両者ともに同じ太源の一部分なので、実は同じものの異なる表現を感じていることがわかります。

   もしみんなが同じように心を開いた状態なら、みんながいつも同じように感じるでしょう。それは互いのクローン状態にもなります。しかしそうである必要はなく、自分が一つの全体的な感情体とならないようにするために、自分の中に自らの「捻り・(ひねり)」を設けることができます。さまざまな否認の形を作ってシフトし、視点を変え、あるいは別の角度からそこにフォーカスするのです。感情体全体がエネルギーの一つの連続体という光であり、それぞれの分子が常に、その感情をどれくらい選ぶかを決めるのです。

Q、 ある人が感じている喜びと、別の人が感じている鬱(うつ)が、なぜ一つの太源からの同じ感情だと言えるのですか?

   
それは同じ感情なのですが、つまりはそれをどの方向に、どこにフォーカス(焦点)を合わせるかということなのです。鬱(Depression)と喜びは大して違わないのです。一般的に非常に大きな喜びを経験すると、逆に正反対の落ち込みも体験することに気づいているでしょうか。あなた方のすべてがその一部であるところの太源の感情体は連続体(スペクトル)を持ち、常に何かを感じています。それは喜びであれ怒りであれ、またその他のどんな感情であれ、それらが太源の周期で回っています。そのためにあなたもまた、周期的にそこからあらゆる感情を拾って知覚しているのです。

   あなたが感じるすべての感情的情緒には、それぞれいくつかの程度があります。
   それはただ単に鬱を感じるというのではなく、その中には他のいくつかの要素もあってそれを感じています。楽しいという時もただ楽しいわけではなく、そこにはあなたが喜びと呼ぶものの構成要素を感じています。ですからそこにあるのは単なる一つの情緒だけではないのです。

   あなたの感情体は、この感情の連続体からそうした構成要素を選んでいます。
   それが、いわゆる気分というものです。肉体を創るとき、自分のDNA構造に入れるものを選ぶように、感情においてもあなたは自分の感じたい感情の要素を選んでいるのです。

   あなたを抱える太源の感情の連続体は、ありとあらゆるものを創造するすべての構成要素を含み持っています。あなたはそこから、いくつかの感情の構成要素を選択します。たとえば15とか20の要素を選び、それらを自分なりに同化させ、たとえばそれに鬱という名前をつけます。また別に15から20の部分を選び、それに喜びというラベルを貼るわけです。ですからその都度、喜びを感じるとき、それが決して同じ喜びでないのはそのためなのです。

   落ち込みを感じる時も、いつも少しずつ違った成分が入っているように感じられるし、怒りを感じる時も毎回、別の怒りの要素が入っています。このように誰でもが、そうした違いを感じています。そうしたものを一般名称で喜びであるとか幸福感、愛などと呼びいろいろありますが、しかし実際にはその中にはさらに細かい要素があります。そしてあなた方は常に一つの感情体に属しているのです。

   自分の感情の要素を理解して、自分自身をそのまま感じることです。
   一番簡単な方法は、自分の感情を決め付けずに感じることから始まります。そこに怒りが湧き上がってきたらそれをしっかり感じることです。そして手放します。もし喜びが湧き上がってきたらそれを感じ、手放します。それは感じる必要があってあなたの中に起きてくるものです。自分のどのような感情であれそれを無視したり逃げたりせず、それを感じることで精神はそれをどうすればいいかを知っています。そうやって感じてみる感情の数が増えるほど、それをどこにしまったらいいのか、どうしたらいいのかがわかるようになり、 自分も他人もグンと楽になっていくでしょう。



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