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自分や他人を裁く時、自分に対して「ノー」と言おう

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自分や他人を裁く時、自分に対して「ノー」と言おう

   生後数年間は、子どもはまだ野生動物のように自由である。
   それはまだ飼い慣らされておらず、家族からまた文化や宗教によって手渡される、この世界の現実という「夢」を受け入れてはいない。子どもが飼い慣らしをされるにつれてその精神の発達は、罰と報酬によって引き起こされる感情を通じて行なわれ、子どもは受け継いだシステムのルールを学んでゆく。それは特定の仕方で行動することを学習することである。しかしこの現実という夢を選択することはできない。なぜなら私たちが生まれて来たとき、それはすでにそこにあったからである。

   彼らはもはや無垢ではなく、飼い慣らされた若者はふつう、自分に押し付けられた現実という夢に反抗する。地球を支配している今の西洋化された文化においては、若者はいたるところで暴力を目にし、暴力のシステムが彼らを吞み込んでしまう。彼らは作られて受け入れられたアイドルたちや、マッチョな男性やセックスシンボルとしての女性を尊敬する。こうして犯罪者がヒーローとなる。我々の若者が好み、付き従うモデルは地獄じみており、それらは世界を侵食する悪夢に貢献しているのだ。

   地獄には2人の主要な支配者が存在する。
   それが裁判官と犠牲者である。そうした法律の概念が地球に持ち込まれた時、それは我々一人ひとりの内部に持ち込まれたのである。裁くものと裁かれるものである自らの分身は常に互いに対立し、憎み合っている。そして自分のうちなる本来のコミュニケーションは、我々を育てた年長者の与える信念がいかなるものであれ、飼い慣らしのプロセスの中で破壊されてしまった。

   飼い慣らしは報酬と処罰を通じて行なわれる。
   両親たちは、自分が飼い慣らされたのと同じ方法で子どもを飼い慣らす。彼らは良いことはほめ、褒美を与え、悪いことにはお仕置きを与え、償いをさせて、彼らの善悪の概念を教える。通常叱られ、罰を受けたと感じるとき、私たちはそれを不当なことだと感じるので反発する。そしてそれが私たちの心の中に傷口を開き、その傷口が感情的な毒を生み出すようになる。

   私たちはその傷を、感情的な傷として感じる。
   この傷から感情的な毒が心に広がり、恐怖が始まり、それが私たちの態度と精神をコントロールし始める。私たちは咎められ、罰を受けるのを怖れるようになり、服従を拒否し、従順でなかったゆえに報酬が与えられないことを怖れるようになる。その結果、私たちは両親や教師、友人、自分の属するグループ、さらには社会から見てそれに値する人間になろうと悪戦苦闘するようになる。

   成長するにつれて何度となく、私たちは他人からの裁きと断罪に服することになり、私たちの社会が支持している「善悪」や「美醜」のような価値基準に従うようになる。そしてやがて私たちは今度は、自分で自分を裁き、罰するようになる。その結果、飼い慣らしは非常に強力なものとなり、私たちはもはや自分を飼い慣らす人を必要とはしなくなる。そのようにして引き継いだ精神的態度は自分に、そして他人へと向かうことになる。

   自らの中の裁判官は犠牲者が有罪であることを発見するが、それは犠牲者は罰されたいという欲求を持っているからである。私たちの中の犠牲者の部分は、自分が無価値であると感じているので、何度も何度も次のような言葉を自分に繰り返す。他人と比べて「私は十分善良ではない。私は頭が良くない。強くないし、勇気もない。美しくない。カッコよくない。年寄りだ。負け犬だ。何をしてもうまくいかない」と。

   こうしたもののすべては、私たちが飼い慣らされ、教え込まれた信念体系が生み出すものである。そうした信念体系は一種の憲法であり、私たちが文句なしに真実だと信じ込んだ「聖なる書」でもある。私はこうした信念体系を、「地獄の書」と呼ぶ。

   私たちの内なる裁判官は、自らの信念体系の中ですべてを裁く。
   そうなると私たちは自らの中に正義を見失ってしまう。もし正義があるのなら、自分の過ち一つに対しては一度償いをすればそれで済むはずであるが、我々の裁判官は限りなく千度も償いをさせようとするのである。その過ちを思い出すとき、あるいは誰かがそれを私たちに思い出させるとき、再び償いをするだろう。こうして償いは終わることがなく、我々の裁判官は、絶えず犠牲者を発見し、有罪だとして罰するのである。

   私たちの信念体系は、飼い慣らしの期間中にさまざまな人々を通して私たちのところにやって来る。私たちはそれを、自分の家族や友人、学校、宗教という環境から吸収する。飼い慣らしのプロセスの中で、幼い子どもは何を信じるかの選択肢を持たないので反抗するが、しかし彼らは何かを変える力を持っていない。私たちはまた自分のアイデンティティを探し求める十代の頃にも反抗するが、その反抗期にどれほどの反抗を体験するかによっても、私たちの将来の自己評価は違ってくる。

   私たちはこの時期、そうした信念体系がどのようにノーマルな人間の本能を抑圧し、どのようにして大人たちが若者を操作しようとするかを見ることになる。私たちは何らかのサポートを得て成功するかもしれないし、恐怖に屈してしまうかもしれない。

   私たちの中の裁判官と裁かれる犠牲者、その裁きに用いられる信念体系という「地獄の書」が、私たちの心の中に一匹のパラサイト、つまり寄生虫ともいうべき寄生生物を生み出す。そのパラサイトはエーテル的なエネルギーでできた1個の「生きた存在」である。その生きた存在は生き延びるために、人間の脳によって作り出される感情を食糧としている。その感情とは、恐怖、怒り、悲しみ、憂鬱、嫉妬、被害者意識といった否定的な想いから生じる感情である。

   つまりパラサイトは、感情を作り出す工場である脳をコントロールするために、恐怖心を引き起こす現実や悪夢を作り出す。それは自分が生き残るために必要な、ネガティブな人間感情という産物を支配するためである。(テレビなどを通して私たちが目にする多くの現実は、つまりはそれを見る者の中に、そうしたネガティブな感情を生み出すために考え出されたものである。)そのようにして脳は魂の成長に必要な感情を生み出すのをストップしてしまう。そうした魂を育てる感情とは、愛からやってくるのである。

   ネガティブな寄生生物であるパラサイトは、細胞を攻撃するウイルスと同じようなやり方で作用する。ウイルスは細胞の再生をコントロールし、細胞自身の成長に必要なものを生産することができないようにする。そして細胞は今度はその代わりに、ウイルスが成長するのに必要なものを生み出すようになるのである。つまりウイルスは細胞の犠牲のもとに存在し、少しずつ細胞に損傷を与え、最後にはそれを破壊する。私たちは自分の周りのいたるところで、人間が自己破壊的な行為に関わっているのを見ている。つまりこれが、パラサイトによって支配された自己破壊的な精神が外部に現れた徴候である。

   トルテック(メキシコの古代叡智の継承者)たちは、このパラサイトの存在に気づいていた。そして人間は、この侵略的な力に対しては2つの選択肢しかないことを知っていた。1つの選択はパラサイトに屈服し、従順に生きて行くことである。そしてもう1つの選択は、幼い子どもや十代の若者がする選択と似ていて、反抗し、パラサイトに宣戦布告して、自分の自由を取り戻し、自分自身の夢を持ち、パラサイトにではなく、自分の精神を真実の自分に糧を与えるために用いることを宣言することである。

   トルテックたちはもちろん、「反抗」を宣言した。
   だから彼らは、ウォーリアー、戦士と呼ばれるのである。これが戦士という言葉の本来の意味である。戦士は自分の中のパラサイトに気づき、自己を癒すことを目的としてそのパラサイトに宣戦布告する人のことである。その戦争の重要性は勝ち負けにではなく、試みることにある。

   この世界に存在するいかなる価値のシステムも、それ自身の地獄の書を持っている。
   そしてすべての人にその種の書が手渡されている。私たちが信念体系を作り上げる限り、それがいかなるものであろうとも、私たちの中には裁判官と犠牲者がいる。そして戦士の仕事は、その内なる裁判官と犠牲者に対して反逆することである。トルテックの方法で「テオティワカンの死者の通り」を歩くことによって、戦士は裁判官と犠牲者を乗り超えることができる。

   この惑星に存在する「地獄の夢」に対して死ねるように祈りなさい。
   地獄を去る準備をしなさい。
   地上の天国にいるあなた自身を想像しなさい。



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