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明治天皇のタブー

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明治天皇のタブー

元々、このエピソードになにか違和感を感じてた…
 
転載元: 国際派日本人養成講座

酒に酔って殴りかかった若き明治天皇を、山岡鉄舟は体を張って諫めた


明治天皇ははじめから偉人天才であったわけではない。
明治元(1868)年に即位された時は、まだ15歳。
英明な青年ではあったが、それが世界各国から称賛される大君主にまで大成されたのは、君側にあって天皇を将来の日本の指導的人格としてお育てしようと努力した人々がいたからである。

その中心人物の一人が、山岡鉄舟であった。
 
 
維新前の天皇は公家や女官たちに囲まれて、とかく文弱に流れやすい環境にあったが、西郷隆盛はこれを問題視して、明治天皇を近代国家を指導すべき、心身ともに強健な君主に育てようとした。

そのために、それまでは天皇の側近に侍する者は貴族に限る、というしきたりだったのを改め、各藩から勇壮な武士を集めて、側近につけた。
その一人として幕臣から選ばれたのが、山岡鉄舟(鉄太郎)であった。
 
西郷の推挙に、鉄舟はその任ではないからと極力固辞したが許されず、とうとう「それでは10年だけ」ということで出仕することになった。時に、明治5(1872)年6月、鉄舟37歳の時であった。
明治天皇、弱冠20歳前後の頃である。
 
明治天皇も剛毅な側近たちとの交わりを好み、夜遅くまで彼らの武勇伝に聞き入ったりして、西郷も「君臣水魚の交わりに至った」と喜びを語っている。
そんな中で、この事件が起きた。

ある日の晩餐に片岡侍従と鉄舟が陪席した。
天皇はしきりに盃を重ねられながら、
「わが日本もこれからは法律で治めるようにしなければならぬ」
という議論をされ、片岡侍従に向かって
「お前のこれについての意見を申せ」と仰せられた。
片岡侍従は「国家を治める大本は、道徳に在りと存じます」と申し上げると、
「いや、それは昔のことだ。今の世に道徳など何にもならぬ」
と天皇は言下に反駁された。片岡侍従はそれに対しても、また意見を申し上げる。
 
こうして議論に花を咲かせて、盃を重ねられたが、天皇はそれまで黙っていた鉄舟を顧みて、
「山岡、お前はどうだ。私の意見に賛成か、それとも不賛成か」
とお尋ねになった。

「ハイ、恐れながら、法律だけでお治めになりますと、人民は伊勢の皇大神宮を拝まないようになりはしないかと存じます」
と鉄舟は答えた。
 
痛いところを突かれて、ぐっと行き詰まった天皇は、途端に御機嫌が悪くなり、黙々と大杯を傾けておられた。
そして突然、立ち上がられて、「山岡っ、相撲を一番来い!」と言われた。が、山岡は動かない。

「山岡っ、立て!」

「恐れ入り奉ります」と、鉄舟は平身低頭した。

「では座り相撲で来い」と鉄舟を押し倒そうとされたが、鉄舟の体は大地に根を張ったように、押せども着けども動かない。
身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢で、なおかつ剣の達人である。

怒った天皇は、右手の拳を固め、鉄舟の眼をつこうとして勢い鋭く飛びかかった。鉄舟がわずかに頭を横にかわすと、天皇は勢い余って、鉄舟の後ろに倒れ込んだ。

「不埒な奴だッ」

顔か手をすりむかれたようなので、片岡侍従はあわてて天皇を別室にお連れして、侍医に応急の手当てを命じた。
 
鉄舟は静かに次の間に引き下がり、粛然と控えていた。片岡侍従は、すぐに謝罪するのがよいと勧告したが、鉄舟は頭を振って応じない。

「いや、私には謝罪する筋はござらぬ」

「しかし、陛下が君を倒そうと遊ばされたとき、君が倒れなかったのはよくない」

その言葉に、鉄舟は決然と自説を述べた。

「何を言われるか。あのとき私が倒れたら、恐れ多くも私は陛下と相撲をとったことになる。
天皇と臣下が相撲(すま)うということは、この上ない不倫である。
だから私はどうしても倒れるわけにはいかなかったのだ。
もしまたあの場合、わざと倒れたとしたら、それは君意に迎合する侫人(ねいじん)である。
君は私が体を躱(かわ)したのを悪いといわれるかもしれないが、私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ。
しかし、陛下が酒にお酔いになったあげく拳で臣下の眼玉を砕いたとなったら、陛下は古今希な暴君と呼ばれさせ給わなければなるまい。
また、陛下自身、酔いのさめた後に、どれほど後悔遊ばされることか。
陛下が負傷遊ばされたことは千万恐懼に堪えぬが、誠に已むを得ぬ次第である。
君は私のこの微衷(びちゅう、本心)を陛下に申し上げていただきたい。
それで陛下が私の措置を悪いと仰せられるなら、私は謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟でござる」

そこへ別の侍従が来て、「陛下はもうおやすみになったから、とにかく一応は退出されたがいいでしょう」と言ったが、鉄舟は「聖断を仰ぐまでは!」と動こうとしない。

侍従たちは持てあまして、侍従長に報告した。侍従長もやってきて説得したが、鉄舟は頑として受けつけない。
そのうちに天皇は眼を覚まされ、「山岡はどうしたか」とお尋ねになった。

侍従が鉄舟の言い分を奏上すると、天皇はしばらく黙然と考えておられたが、やがて、「私が悪かった。山岡にそう申すがいい」と言われた。

侍従はすぐに鉄舟にその旨を伝えたが、鉄舟は
 
「御聖旨は畏(かしこ)いきわみだが、ただ悪かったとの仰せだけでは、私はこの座を立ちかねます。どうか御実効をお示し下さるようお願い申し上げます」

と、なお強硬に主張した。

そこで天皇は、
「今後、酒と相撲をやめる」と誓われた。
鉄舟は感涙にむせんで「聖旨のほど、ありがたく拝承し奉る」と言上して退出した。
夜はもはや明けなんとしていた。
 
鉄舟はそれから一向に出仕しなくなった。侍従を差し向けて、出仕を促しても、ひたすら謹慎中と称して出仕しなかった。

一ヶ月ほど経ったある日、山岡は突然出仕し、御前へ伺候して葡萄酒一ダースを献上した。「もう飲んでもよいか!」と、天皇は非常なお喜びで、鉄舟の面前で早速、その葡萄酒を召し上がったという。
 
 
 
「皇室の人って今も昔も、こういう感じじゃないよな」
っていう違和感。
 
・・・で、この話。
 
 
 

大室寅之助(明治天皇)は南朝・護良親王の末裔だった!


2013/04/21

「明治天皇が長州藩の大室寅之助だ」として、様々な憶測や妄想、あるいは悪意に満ちた皇室批判があることは多くの方がご存じなことでしょう。
そこで、今回は、”明治天皇入れ替え説”の真偽について論じます。

まず、私の実家は山口県の北長門地区ですが、そこで古くから仄聞したところによると、南北朝時代の後醍醐天皇の第一皇子である護良親王の息子の光良親王の子孫で地家氏(後の大室寅之助の生家)という家系があって、長門の国の国主だった長尾氏、次いで大内氏、さらに毛利氏の各時代を、天下を取った時の”隠し玉”として大切に匿われていたということです。

実際、地家寅之助が護良親王の末裔である話は吉田松陰も書き残しています。この地家寅之助は、この後、同じく護良親王の末裔である周防の国の田布施というところにある大室家に養子に入り、大室寅之助と名乗りました。

この他の重要な証言としては、梨本宮守正の娘で朝鮮王朝に嫁いだ李方子は、「明治帝は南朝の人だ」、
藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の妹の息子・興光も、「睦仁親王と明治帝は別人だ」と漏らしたとの証言があります。

また、愛知県の熊沢宏道は熊沢家が後醍醐天皇6代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝の正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されたが、その後具体的は進展は見られず崩御されたと。

さらに、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。

そして、日本の歴史の中では、南北朝時代以降も長い間の懸案事項として、皇統における南北朝の争いや南朝の復興運動というものがあり、国学者の本居宣長、平田篤胤、水戸光圀らによって教導されてきました。

その結果、南朝系”隠し玉”はこの他にも全国にいて、南朝復興論を主張する雄藩が、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを抱えていました。

時の覇者に大政を委任する天皇は、現実には生身ですから覇者がその即位、譲位を左右した例は歴史上、枚挙に遑がありません。
藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇などです。

これらから見ても、”公武法制”の存在を知った雄藩は、「いつかは幕府に代わり、この手で天下を掌握せん」との大志から、密かに”自前の天皇”を準備したのは事実だったと思料されます。

ところで、明治天皇と睦仁親王の入れ替えの背景には、”堀川政略(落合莞爾氏)”という明治維新全体を支配する大きなシナリオが描かれていたようです。

それは、幕末における欧米列強からの開国要求という国際情勢の変化にほかなりません。
ウィーン体制の結果成立した欧州王室連合は、縄文、弥生時代という太古の昔に分離した同族(海部氏、物部氏、秦氏ら)のDNAが入った日本の皇室にも参加を求める方針を立てました。

これを受け皇室は、国際環境の変化への対応とともに、万世一系の皇統と万邦無比の国体を保持するため、孝明天皇が義兄・朝彦親王および岩倉具視らと謀って、孝明天皇が崩御を装い、睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠れ、以降はシャーマンとして国家安泰を祈りながら外交、国際金融などを担当する”国際天皇”になり(京都皇統)、
 
一方では大室寅之助が明治天皇として即位し、政府と軍を統帥する”公式天皇”となり(東京皇統)、
 
”表裏の皇統二元体制”を敷くことを決めたものと考えられます。

日本皇室が世界王室連合に参加した暁には、王室間外交はもちろん、欧州王室の慣行である王室間通婚を避けて通れす、その結果、皇統に外国王室の血脈が入れば古来の国体概念とかい離する虞がありました。

また、万世一系の皇統(皇室内部での継承)を維持するための後継候補バンクという存在意義も考慮され、さらには、大政奉還の結果、政権が京都に戻ることになれば、幕府の本拠だった東京はすたれ、元に武蔵野に戻ることも憂慮されようでした。

参照:「明治維新の極秘計画」(落合莞爾)
 

明治天皇と田布施システムの妄想


2014/02/26

「明治天皇が長州藩の大室寅之助だ」として、様々な憶測があることは多くの方がご存じなことでしょう。
そこで今回は、依然ベールに包まれている”明治天皇の実像”に迫るとともに、”田布施システム”等という妄想話にメスを入れたいと思います”。

山口県北部の萩市では、古くから仄聞するところによると、南北朝時代の後醍醐天皇の第一皇子である護良親王の末裔・興良(おきなが)親王の子孫である”地家寅之助”という人物がいて、長門の国の国主だった長尾氏、次いで大内氏、
さらに毛利氏の各時代を、領主が天下を取った時の”隠し玉”として匿われていたということです。
この地家寅之助に関しては、正反対の方向にある熊毛郡田布施町の出身であるとの説も有ります。
というのは、日明貿易で財を成した大内氏(百済系?)に明国や高麗の背景のもと、
日本からの独立を画策する動きが見受けられたためこれを牽制する意味で、旧ユダヤ10支族物部氏系の南朝方が、護良親王の末裔・興良(おきなが)親王を、また足利幕府も後の”西行”こと佐藤義清(のりきよ)の末裔を、秦氏体制時代に不満を持って諸国に散らばった物部氏の隠れ里”田布施”に派遣、大内氏の野望画策を監視したということです。
 
田布施は鹿児島県や佐賀県にもあり、”タブセ”はヘブライ語と言われています。また田布施より西に”宇部”がありますがこれも物部から由来する名で、毛利氏(物部モリヤの末裔)の出身地と言われています。

ちなみに、佐藤義清の末裔・佐藤甚兵衛は、佐藤市郎海軍中将、佐藤(岸)信介、佐藤栄作の三兄弟となります。
佐藤栄作の話では「私達三兄弟は、頭の良さは上からだよ」と言ったというほどの秀才で、佐藤市郎は海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業したが、
同じ首席でも過去に例を見ない高得点であったという。
 
佐藤中将と海軍兵学校36期の同期生には沢本 頼雄、塚原二四三、南雲忠一の三人の海軍大将がいるが、頭の良さは佐藤中将が抜きん出ていたことは衆目の認めるところだったという。

また安倍総理の祖先は、物部系賀茂氏の流れを汲む安倍晴明の末裔で、秦氏系天皇を呪詛したかどで平安時代に肥前国(福岡県)に流罪になり、そこで縁ができた佐賀の松浦党として平家側に付いたため鎌倉時代に再び流罪となって長門国(山口県)の旧大津郡日置村(山陽側の田布施とは反対側の山陰側)に至る事となります。

さて、話を地家寅之助にもどすと、実際、地家寅之助が護良親王の末裔である話は吉田松陰も書き残しており、幕末には松蔭が天皇としての英才教育をしていたと言われています。
地家寅之助は、この後、同じく護良親王の末裔である大室家に養子に入り、大室寅之助と名乗りました。

また、この他の重要な証言としては、梨本宮守正の娘で朝鮮王朝に嫁いだ李方子は、「明治帝は南朝の人だ」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の妹の息子・興光も、「睦仁親王と明治帝は別人だ」との証言があります。

また、愛知県の熊沢宏道は熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝の正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されたが、その後具体的は進展は見られず崩御されたと。

さらに、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。
そして、日本の歴史の中では、南北朝時代以降も長い間の懸案事項として、皇統における南北朝の争いや南朝の復興運動というものがあり、国学者の本居宣長、平田篤胤、水戸光圀、吉田松陰らによって教導されてきました。

その結果、南朝系”隠し玉”はこの他にも全国にいて、南朝復興論を主張する雄藩が、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを匿っていました。

時の覇者に大政を委任する天皇は、現実には生身ですから覇者がその即位、譲位を左右した例は歴史上、枚挙に遑がありません。藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇などです。

これらから見ても、”公武法制”の存在を知った雄藩は、「いつかは幕府に代わり、この手で天下を掌握せん」との大志から、密かに”自前の天皇”を準備したのは事実だったと推測されます。

ところで、明治天皇と睦仁親王の交代の背景には、”堀川政略(落合莞爾氏)”という明治維新全体を支配する大きなシナリオが描かれていたようです。

それは、幕末における欧米列強からの開国要求という国際情勢の変化にほかなりません。ウィーン体制の結果成立した欧州王室連合は、縄文、弥生時代という太古の昔に分離した同族(海部氏、物部氏、秦氏ら)のDNAが入った日本の皇室にも参加を求める方針を立てました。

これを受け皇室は、国際環境の変化への対応とともに、万世一系(血脈又は霊脈としての)と国体(国家としての霊脈)を維持するため、孝明天皇が義兄・朝彦親王および岩倉具視らと謀って、孝明天皇が崩御を装い、睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠れ、以降はシャーマンとして国家安泰を祈りながら外交、国際金融などを担当する”国際天皇”になり(京都皇統)、
一方では大室寅之助が明治天皇として即位し、政府と軍を統帥する”政体天皇”となり(東京皇統)、”表裏の皇統二元体制”を敷くことを決めたものと考えられます。

日本皇室が世界王室連合に参加した暁には、王室間外交はもちろん、欧州王室の慣行である王室間通婚を避けて通れす、その結果、皇統に外国王室の血脈が入れば古来の国体概念とかい離する虞がありました。

また、万世一系の皇統(必ずしも直系だけでの継承ではない)を維持するための後継候補バンクという存在意義も考慮され、さらには、大政奉還の結果、政権が京都に戻ることになれば、幕府の本拠だった東京はすたれ、元に武蔵野に戻ることも憂慮されたようでした。

参照:「明治維新の極秘計画」「奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新」(落合莞爾)



桓武天皇から、明治天皇すり替え説、雅子妃まで書く、菊タブーについて。

 
平成13年12月23日、桓武天皇の生母は、古代朝鮮、百済の武寧王の子孫である。このような、発表が平成天皇記者会見であった。

確かに、桓武天皇の生母、贈太皇太后、高野朝臣新笠、
たかののあそみにいかさ、間違いは無い。
しかし、実態は当時、渡来人として日本に帰化した百済王朝の子孫で彼女の場合、帰化してから10代目に当たる。

したがって、韓国人が喜び、騒ぐ程の事ではない。
日本の皇室に古代朝鮮人の血が入ったとするなら、一方でこのような話もある。

朝鮮半島を始めて統一した王朝、新羅の第2王統、昔姓王統の祖は日本人、神武天皇の兄、稲飯命、いなひのみこと、である。
この事は歴史書、朝鮮正史の一つ、三国史に記されている。

朝鮮の王は、日本人だったという話。

天皇、皇統記、南朝、北朝あり、NHKの大河ドラマでもあるように、実際は万世一系といわれているが。非常に複雑な家系になる。

徳川の世から、明治にかけての間に、面白い話がある。

第122代、明治天皇、孝明天皇の第二子、睦仁親王が実は替え玉、すり替えだったと言う話。
これはインターネットでも沢山の話があるので、調べれば良いと思うが、それは簡単に説明するとこんな話になる。

徳川幕府は政権を天皇に返還、大政奉還をした。
時の天皇は孝明天皇、そして明治天皇、だが、政権を担いだ、薩摩、長州、政権運用上、扱いやすいお上にしたかった。

そこで、孝明天皇、暗殺、皇位継承者、睦仁親王をすり替えた。
すり替わって、明治天皇となったのは、南朝系天皇の子孫、大室寅之祐。
面白い事にこの大室家の子孫、元内閣総理大臣、橋本竜太郎に繋がる。

この説の根拠はいろいろ有るが、信憑性が高いのは、当時の写真、明治天皇になる前とその後では、明らかに別人である。

とにかく、結果、歴史上有名な明治天皇が誕生した。
明治天皇、昭憲皇后の間の子供は無かった。
大正天皇は明治天皇と柳原伯爵の娘、柳原愛子、宮中女官との間の子供である。
 
大正天皇、色々奇功もあったとされた。
現在ではその症状からいって知識障害ではなかったかと言われているが、その生涯は短かった。

この大正天皇と貞明皇后の長男が、昭和天皇になる。

日本には色んなタブーがあって、触れてはいけない問題、話があって、天皇家の問題は菊のタブーとされた。

菊は天皇家のご紋章である。

戦前であれば、このような記事は書けないし、書いたら、不敬罪で刑務所行きだった。

現在、平成天皇陛下の時代、天皇家の婚姻は天皇家に連なる者か近親者との結婚が多かった。
血が濃いとか色々弊害はあったようだ。
そのためかどうかは知らないが、今の天皇陛下が皇太子殿下の時、初めて民間から妃を迎えた、現在の美智子皇后である。



将軍家茂と孝明天皇の暗殺 ~龍馬暗殺の真相~

転載元: ”高次元への旅”
2013/06/24

今日から、何回かに分けて、幕末の話を書きます。

私は過去世で幕末にいたのですが、当時のとても重大なことを思い出し、これは真実なのか? と自分でも信じられず、調べまくりました。

その結果、自分では信じるに至ったわけですが、世間一般では認めてもらえるどうかはわかりません。

過去世などという立証出来ないものが基盤になっていますので、 本当なの? 事実? と考えずに、小説のようなフィクションととらえて、お読みいただけるとありがたいです。



もうこれはほぼ定説となっていますが、将軍家茂と孝明天皇の暗殺です。

尊王開国派の薩摩・長州と岩倉具視とで、計画・実行されました。

家茂は大阪城にて、毒物の入った薬を飲まされ、亡くなります。

4~5日前から風邪気味だったのですが、宮中からまわされたという医者が来て、何の疑いもなく診察してもらいます。

妻が和宮なので、その筋からだろうと思ったようです。

家茂は処方された薬を飲んで苦しみ出し・・・亡くなりました。

遺骸は江戸に送られ、和宮がひと目見ようとしましたが、顔にも毒殺痕が出ていたため、老中が棺を開けることを許しませんでした。

その5ヶ月後に今度は孝明天皇が、天然痘に罹り、それが回復したところで、急に容体が悪化して亡くなります。

公式には天然痘で死亡したことになっていますが、経過を読んでみると、明らかにそうではないことがわかります。

当時の主治医は、日記に発病以来の容体を記録しています。

それによると、25日になって病はほとんど平癒し、これでひと安心とホッとしていたのも束の間、その数時間後、女官の一人が血相を変えて呼びに来ます。

主治医が行ってみると、天皇は激しい咳き込みとともに吐血していました。

胸をかきむしって、大変な苦しみようです。

そしてそのまま崩御されました。

これは砒素系劇薬の急性中毒症状です。

アーネスト・サトウも、 ”毒殺と聞いた” と書き残しています。

薩長+岩倉具視にとって、孝明天皇はベストなタイミングで天然痘にかかり、このまま亡くなってくれれば・・・と期待していました。

が、天皇はそれをはねのけ、回復します。

こうなったらもう殺すしかなく、その時であれば ”天然痘で死んだ” ということに出来る千載一遇のチャンスだったので、毒殺しました。

将軍家茂の毒殺については資料がほとんどないのですが、孝明天皇の方は側近や関係する人がわずかずつ証言した資料があちこちにあり、それを集めると見えてきます。

こうして、薩長・岩倉にとって邪魔だった、病的に外国嫌いで佐幕派の天皇がいなくなりました。

孝明天皇の次に皇位につくのは、息子の睦仁親王です。

睦仁親王であれば倒幕・開国がやりやすくなるのか・・・残念ながらそうではありませんでした。

父・孝明天皇の思想を継いでいるため、睦仁親王もやはり外国嫌いであり、さらに虚弱体質・繊細な神経の持ち主で、討幕など出来そうもない人物です。

薩長や岩倉にとってはまたしても不要な人物で、邪魔です。

この人を天皇にしてしまったら、事が成りません。

続きます。

幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷から始まっています。

この思想を持つ人たちにとっては、南朝の方が正統となります。

が、現実には室町時代に南朝の系統は消滅し、以来北朝が正統となり、孝明天皇・睦仁親王ももちろん北朝です。

話は変わって、幕末、長州の田布施という所に、大室寅之祐という少年がいました。

この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫、光良親王の子孫です。

つまり南朝の子孫となります。

結論から言うと、睦仁親王とこの大室寅之祐はすり替えられました。

もちろん、薩長・岩倉の手によってです。

維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてくれる天皇が必要でした。

そこで吉田松陰の命を受けた伊藤俊輔が守役をしていた、大室寅之祐を替え玉としたのです。

吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除して正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活させようと考えていたのでした。

ここで、疑問が出てくると思います。

はたして天皇となる人のすり替えが可能なのか?

以下は、その証拠と言われているものです。

① 睦仁親王は神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。

ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしています。

② 睦仁親王が即位前に乗馬をした記録はありません。

天皇は鳳凰を飾った輿、 「鳳輦」(ほうれん) に乗ります。

乗馬は必要ないばかりか、公家は武士のたしなみである乗馬を下品だと見下していました。

ですが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いで、馬上で閲兵しています。

③ 睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。

④ 明治天皇の ”皇太后” は父:孝明天皇の妻であるはず、なのに、明治天皇は自分の妻である一条美子を皇后ではなく ”皇太后” と呼ばせていました。

一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。

⑤ 明治天皇は左利きでした。昔は左利きは良くないとされ、高貴な生まれの人は必ず矯正されていました。

ましてや将来天皇となる人がそのまま・・・ということはありえません。

⑥ 16歳までの睦仁親王と明治天皇の字は明らかに違っていました。

睦仁親王はヘタクソで明治天皇は達筆だった、と言う人もいますが、私が両方の字を見た感想は、睦仁親王は書道の基本を押さえた字を書き、明治天皇はそうではない字でした。

明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。

自信がなかったためかどうかはわかりません。

短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。

⑦ 明治天皇は幼少期の写真とされているものと、まったくの別人です。

睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。

⑧ 明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。

⑨ 明治の新政府が出来て間もなく、まだ少年である天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。

⑩ 明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。

⑪ 明治35年、熊本にて軍の演習後の宴会出席を天皇が断ったため、山県有朋が 「士気にかかわる!」 と天皇に突っかかり、言い合いになります。

結局、天皇の方が折れて出席しているし、明治37年には大山巌も天皇の命令を無視しています。

⑫ 明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりして、明治天皇が大室寅之祐でなければ、敵の南朝を称えていることになります。

後醍醐天皇がいた吉野に建てた ”吉野神宮” の御由緒には 「近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれます」 と書かれていて、北朝である明治天皇に対して不敬ではないか、と思われる内容です。

⑬ 明治44年、南朝・北朝のどちらが正統か、帝国議会で議論されました。

そこで驚くことに、天皇は北朝であるにもかかわらず、南朝が正統と決定され、明治天皇もそれを承認しました。

教科書も改訂されました。

⑭ 皇居には楠木正成の巨大な像があります。

まだ南朝が正統と帝国議会で承認される前、明治29年、寄付により設置されています。

敵将の銅像を、何故、堂々と寄付したのか? と疑問がわきますが、すり替えを知っていたと思えば納得もいきます。

実際に皇居に行って、北朝の天皇が中にいらっしゃると思って見ると・・・なんとも奇妙な感じがします。

すり替えられている、という根拠になっているものをいくつか挙げてみましたが、他にもまだあります。

このようにして、皇統はひそかに北朝から南朝にすり替えられたのでした。

天皇のすり替えはトップシークレットであり、薩長の中でもほんの一握りの人間しか知りませんでした。

その後、討幕の気運は日に日に高まっていき、ついに討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下ります。

が、同じその日、幕府の第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上しました。

大政奉還です。
 
 大政奉還は討幕派の機先を制し、武力討幕の名目を奪う狙いがありました。

しかし、いったん延期とはなったものの、薩摩・長州の勢いは抑えられません。

彼らは武力でもって、徹底的に幕府を潰したいのです。

もう戦争はしなくてもいいのではないかという穏健派に対抗し、薩長は暴走しつつありました。

幕府を倒す目的は、 ”徳川家の日本” を脱却して、国民のための新しい日本を作ることであるのに、このままいけば ”薩長の日本” となりそうな気配です。

それほど薩長の力は増大していました。

この状況を危惧する人物がいました。

坂本龍馬です。

徳川が倒れても、薩長が牛耳る日本となるのなら、なんら変わりはないと彼は考えました。

龍馬は郷士であったことや、脱藩をして藩に縛られない身分になったこともあって、考えがリベラルでした。

議会制度を導入して合議による政治、有能な人材は身分に関係なく登用する、身分制度のない自由な国、そしてゆくゆくはアメリカのように国民が大統領を選ぶ国にしたいとまで考えていたようです。

ですから、政権を返上した後は、旧幕府の人間だろうが何だろうが、みんなで政治を行えばいいではないか、という考えでした。

ですが、薩長は違います。

旧幕府の人間は敵、自分は何藩、あの人は何藩、とやはり藩単位で考えてしまいます。
 
 


同じく中岡慎太郎も藩への帰属意識はありませんでした。

中岡慎太郎は龍馬と違って、武力討幕派です。

この時期、龍馬と頻繁に会って話すことなどほとんどないはずですが、2人はたびたび会っては何かを相談しています。

宮川助五郎の件ではないかという説もありますが、そんな話は数分で終わります。

この2人は討幕に関しては、武力派と穏健派で意見は違っていましたが、薩長が牛耳る日本にして良いのか、という意見では一致していました。

そんな日本を作るために命を賭けて奔走してきたわけではないのです。

2人は考えます。

2藩の暴走を止めるためには、天皇のすり替えを公表するしか方法はありません。

それともう一つ。

皇室の系統を変えるという大それたことをしておきながら、 (特に中岡慎太郎は寅之祐との関わりが多くありました) このまま黙っていていいのか、という罪悪感もありました。

中岡慎太郎はどちらかというと、この気持ちが強かったようです。

正しい南朝に戻したのだから、むしろ公表すべき、という考えです。

公表するのであれば、大政奉還が成った今しかない、と2人は考えました。

幕府が政権を返上する前であれば、倒幕の士気にかかわったかもしれませんが、政権が朝廷に移った以上、後戻りすることはありません。

延ばせば延ばすほど、公表は難しくなります。

王政復古後に後付けで公表するよりも、先に、もしくは同時に公表し、堂々と南朝の天皇でもって、王政復古の大号令を発するべきである、と考えました。

2人は公表にあたって、賛同者をつのるべく、計画を立てていました。

幕府上層部や名だたる藩の藩主、朝廷、薩長の中にも同士は必要です。

事が事だけに、秘密裏に進めなければなりません。

こうして2人は頻繁に会って計画を立てていました。

その計画を知った、すり替え公表をしたくない薩長の実力者は、この2人を危険人物とみなします。

天皇自身は、南朝の血筋であるし、幕末のこの時期は南朝正統論が盛んですから、公表されても大丈夫なわけです。

しかし、薩長側にしてみれば、皇統が南朝に戻ったことは良しとして、では睦仁親王は今どこに? となると、殺害したことがバレてしまいます。

いくら南朝が正統とはいえ、 ”天皇を殺害した” ことは大きなマイナスです。

北朝であっても、天皇は天皇であり、そんなことが許されるはずがありません。

睦仁親王ばかりか、ヘタしたら孝明天皇暗殺、将軍家茂暗殺の件まで、明るみに出てしまうかもしれません。

そうなると、新政府で権力をふるうどころか追放されるおそれさえあります。

絶対に公表されては困ります。

こうして、龍馬と中岡慎太郎は命を狙われることになりました。

この2名を殺すのは、日本にとって大変な損失であり、なんとか説得出来ないものか、幽閉しておけばいいのではないか、という案もあったと思います。

西郷隆盛などは実直な性格ゆえに、皇室を敬う気持ちから、公表に賛成だったかもしれません。

しかし、暗殺で事を進めてきた連中は、暗殺という方法は一瞬で物事が片付く経験があるため、実行に移します。

どちらか一方を先に殺してしまったら、残る方が一気に事を進める可能性があるので、2人同時に殺害しなくてはなりませんでした。

こうして2人が一緒にいた、11月15日の近江屋に、刺客が向かったのでした。
 
龍馬暗殺は幕末最大のミステリーとされていますが、定説では京都見廻組がやったことになっています。
 
 
他に有力な証拠がないため、もう見廻組の仕業にしとく? みたいな感じで定説となっています。

見廻組説も非常に怪しいので、というか、真実だとは到底思えないから、現在、いろんな犯人説が出ているのです。

この事件には記録らしいものが一つもありません。

土佐藩の記録もなければ、医者の証言も残っていませんし、海援隊も陸援隊も駆けつけていますが、記録はありません。

中岡慎太郎は襲撃を受けた後も2日間生きていて、多くを語っているはずですが、正確に伝わってきません。

というわけで、ここからは殺害現場にいち早く駆けつけた人の証言を追ってみます。

谷干城 (土佐藩士) は事件後30年以上経過してから、この事件を語っています。

谷は自白をした見廻組の今井を、龍馬の人気に便乗した売名行為と激しく非難しています。

自分が行った時に中岡慎太郎は斬られてはいたが、意識はしっかりしていたと言います。

中岡慎太郎が谷に直接話したところによると、

”龍馬と話をしていたら、十津川郷士を名乗る者が来た。藤吉が取り次ぎ、持ってきた名札を2人で見ようとしたところに、いきなり 「コナクソ」 と言って斬ってきた。襲撃者は2名だった。自分が先にやられた。2人が倒れると相手は 「もうよい、もうよい」 と言って去った。気を失っていた龍馬は敵が去った後、梯子段の所まで行って、 「刀はないか、刀はないか」 と言って静かになった” というものです。

襲撃後、何人かが中岡慎太郎と会話をしたと思われますが、この ”十津川” を聞いたのは谷だけであり、名札の件もおかしいのです。

というのは、シャモを買いに行って戻ってきた峯吉が、藤吉は二階への上り口で斬られていた、と証言しているからです。

ということは、藤吉は二階へ上がっておらず、名札を2人に渡すことが出来ません。

現場に名札は残っていませんでした。

田中光顕 (陸援隊士) の証言によると、中岡慎太郎の意識はハッキリしており、

”2人の男が二階に駆け上がってきて物も言わずに斬りかかった。龍馬はやられて 「もう頭をやられたから駄目だ」 と言った。自分もこんなにやられたからには助からないだろう” と言ったことになっています。

田中は意識がしっかりしている中岡慎太郎と会話をしたと言うのですが、現場にいた海援隊士の土岐真金は 「中岡慎太郎の介抱をして陸援隊田中氏などに連絡をした。田中氏の到着後、私らが龍馬・中岡が暗殺されたことを話し、中岡の遺言を伝えた」 と記しているのです。

となると、中岡慎太郎の死後、田中光顕は到着したことになります。

土佐藩士のこの2人でさえ、証言に一致するところがほとんどありません。

現場には、シャモを買いに行った峯吉と近江屋の主人もいました。

その証言もあります。


峯吉の証言です。 (大正5年)

「その日の夕方、峯吉の家である書店に中岡慎太郎が来た。 (中岡慎太郎は以前ここに下宿していました) 峯吉に書状を渡し、返事は近江屋に持って来るように、と言った。夜7時頃、用事を済ませて近江屋へ行く。近江屋の二階で龍馬にシャモを買ってくるように言われたので、近くの ”鳥新” という店に行ったが、あいにくシャモは売り切れで、そこで30分くらい待った。近江屋に戻ったのは8時。その間に2人は襲撃されていた。中岡慎太郎は隣りの屋根の上に倒れていたので、近江屋の家族たちと室内に運び、その後土佐藩邸から医師が来た。早く白川藩邸 (陸援隊の本拠地) に知らせないといけないというので自分が裸馬に乗って行った」

この時、中岡慎太郎と会話したとは言っていません。

同じく、峯吉が大正13年に語った話です。

「その日、自分は中岡慎太郎の家にいた。そこに龍馬から呼び出しの書面が来て、中岡慎太郎と自分は近江屋へ行った。近江屋の店頭で立ち話をしていたら、龍馬が二階から降りてきて、鶏肉を買ってくるように言われた。鳥新に行き、待たされて買ったのち近江屋に戻った。二階に藤吉が倒れて苦しんでいて、龍馬がやられ、中岡慎太郎は隣りの屋根に倒れていた。中岡慎太郎に白川藩邸に知らせてくれと言われたので、知らせに行った。中岡慎太郎に聞いた話では、刺客は坂本氏に至急御面会したい、と言い藤吉が取り次いだという。藤吉が二階に案内し、降りようとしたところを斬られ、刺客はそのまま2人がいる座敷に飛び込んできて、2人とも斬られた、と言っていた」

大正5年の話と全然違っています。

しかも、事件後に聴取された時は、藤吉は二階へ上がる所 (つまり一階) で倒れていたと証言しているのに、ここでは二階で倒れていたと言っています。

中岡慎太郎が自分ちに立ち寄ったと言っていた話が、後からは自分が慎太郎の居宅にいたと言っています。

シャモを買ってこいと言われた場所も、近江屋二階から、店先となっていて、ここも証言が変わっています。

真実を語っているとは言い難いです。

最後は近江屋主人の息子が後に話した証言です。 (井口新之助談話:大正5年)

「当時私は4歳。奥の間に横になっていた。父が言うには、客が来て藤吉が取り次いだと思ったら、階段の上からバタバタと音がした。藤吉が斬られた音だが龍馬は気づかず ”ホタエナ” と言って叱ったらしい。すると今度は龍馬の居間でバタバタと音がした。父は裏口から土佐藩邸に知らせに行ったという。中岡慎太郎はさんざん斬られたが急所をはずれていたため意識はしっかりしていて、代わる代わる人の膝にもたれて 「焼き飯をくれ」 と言って食べたそうだ」

しかし、明治33年、近江屋主人本人はこう言っています。

「龍馬は綿入れを着ていたので、体は無事だったが、額を斬られて倒れたところを、喉を二刺しされた。二階の小座敷には当家の小僧が3人いた。刺客は3人だった」

もう、こうなると全員が真相を語っていないと思われます。

細かいことがすべて異なっているからです。

白峰駿馬は海援隊士で、酢屋からいち早く現場に駆けつけています。

ですが、一切何も語らず、明治元年にアメリカに留学しています。

刺客は逃げて行く時に、薩摩の言葉で話した、という近江屋女中の証言もあります。

アーネスト・サトウは龍馬暗殺の4日後に、吉井幸輔 (薩摩藩士) が来たという話とともに、 ”姓名不詳の3人の男に殺された” と暗殺のことを書いています。

中岡慎太郎は2日間生きて、もっと多くを語っているはずです。

そしてそれはもっと多くの人が聞き、同じ証言が残っていてもいいはずなのですが・・・みんな隠しているのです。

それは何故か・・・しゃべると命が危ないからです。

薩長・岩倉は、龍馬と中岡慎太郎という大人物まで平気で暗殺する連中です。

この暗殺で、明治天皇のすり替えの公表に賛成していた人たちは、一斉に口をつぐみました。

後藤象二郎も賛成していた一人です。

2人が殺害されたため、余計なことは言わず、犯人もわかっていたので、身を守る為に、この事件にわざと無関心でした。

龍馬は手紙を多く書いています。

それが西郷隆盛宛てや中岡慎太郎宛ての手紙はすべて消滅しています。

権力者から消されたとしか思えません。

暗殺に関しても、時の権力者に証拠をすべて消されているので、ここまで何もないわけです。

明治になってからも、政府が執拗に証拠隠滅をはかったと思われます。

坂本龍馬、中岡慎太郎を殺害したのは、2人の顔見知りでした。

薩摩藩士です。

だから名札など渡していません。

顔パスなのです。

藤吉は知っている顔ですから、普通に通します。

刺客はまず藤吉を斬ったので、藤吉が倒れた音がしました。

もし、松代藩だの十津川郷士だの、よくわからない人が訪ねて来ているのであれば、この不審な音に、剣の達人は身構えるはずです。

命を狙われていることを知っているから、それまでに居場所も転々と変えてきたわけです。

ここにきて急に無防備になるわけがありません。

不意を突かれたのは、完全に信用していたからです。
 
 
中岡は刺客が誰か、理由も何かということを、 ”天皇すり替えを知っている人” には話したはずです。

が、すべて闇に葬られました。

2日後に亡くなった時、吐いて吐いて死んだのは、もしかしたら毒を盛られたのかもしれません。

早く死んでもらわなければ、すり替えを知らない人にまで、余計なことをしゃべるかもしれないからです。

幕末最大のミステリーは、見廻組説、新選組説、御陵衛士説、紀州藩説、薩摩藩説、後藤象二郎説、はたまた中岡慎太郎が犯人説まで、いろいろあります。

が、真相は薩長の実力者と岩倉が、薩摩藩士を使って襲撃したのでした。

理由は、龍馬と中岡慎太郎が、明治天皇のすり替えを世間に公表しようとしたからです。

そんなことをされれば、飛ぶ鳥を落とす勢いの薩長ですが、悪事 (睦仁親王や孝明天皇・将軍家茂の暗殺) が明るみに出て、立場が悪くなるかもしれません。

今は武力でもって、倒幕の総仕上げをしようとしている重要な時期なのです。

邪魔をされてなるものか、と大久保あたりは思ったことでしょう。

邪魔な2人は、1人ずつやった場合、どちらも一人ででも事を起こす人物なので、同時に殺す必要がありました。

すり替え公表の計画に賛成していた人は、この暗殺により一斉に口をつぐみました。

あの2人でさえ殺されるのだ、と改めて恐怖を感じたのだと思います。

死ぬ間際の中岡慎太郎から真相を聞いた人も、命にかかわるので迂闊には証言出来ず・・・黙して語りませんでした。

それにより情報が交錯し、たくさんの食い違いが出てきて、ミステリーとなっているのです。

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