神は自分の1人子を地球に遣わしたりはしない
あなた方が「現時点」で慣れ親しんでいる自分だと思っているものは、実は総体的な自己自身のうちのほんの一部分に過ぎないのです。そうした一部に過ぎないあなた方が、「至高の存在」について自問し思い描くものが、そのゆえにあなた方と同じような能力を持った、しかもその能力が著しく強調された「男性的神」というものになるのです。
よってこのようにして生まれた想像の結果である神は、「自分とは一体何なのか」という人類のうつろう思い込みをそのたびに反映しながら、何世紀ものあいだ変化し続けてきました。特に人類が、生き残る存続を賭けた闘いに明け暮れていた時代には、自分たちにとって必要で欠かせない資質である残虐さや剛健さなどの性質は、そのまま当時の自分たちの神に投影されることになりました。その理由は、人間たちがそうした性質に憧れ、畏れていたからに他なりません。つまりあなた方は、自らの神の概念を、自らの肉体の鋳型に入れて神を創造し続けてきたのです。
しかし、あなた方には未だ想像できないかもしれない多次元的現実においては、あなた方の持つ神の概念は相対的に無意味でしかありません。「至高の存在」という呼び方でさえが、あなた方の人間的な資質が自然に投影されてしまうために歪みを含んでいます。すべての思考や概念が実在性を持つ次元があり、それらが生み出すエネルギー存在がすべてを推し進めていることを理解する必要があります。しかしあなた方は、物質を信頼しているようには、未だ思考や概念というエネルギーを信頼することができないのです。
さて、あなた自身のまとう肉体像は、あなたが自らをどのように考えているかが、物質という性質において現われたものです。そうした考えが自らに向けられなければ、その肉体像は存在することができなかったのです。そしてほとんどの場合、そこまでがあなた方が自分を認識しているすべてです。
そうした自分自身に関する考えの原初的な力とエネルギーが、あなたの肉体を活かしています。ですから思考は、あなた方が気づいているよりも遙かに重要なものなのです。もし自分が実は多次元的存在であり、無限の可能性の中に生きていることを受け入れられるとき、あなた方は「神」という言葉を超えたところにある現実を、一瞬、垣間見るかもしれません。そして言葉による神の概念の持つ真実を把握することが、なぜ不可能に近いかが理解できるかもしれません。
神はまず、すべてを創造したものであり、一つの物理的宇宙だけにとどまらず、多様性において無限の可能性を備えた存在を創造しました。それはあなた方の科学者たちがこれまでに知り得た物理的宇宙という世界を超えた、遙かに膨大な広がりを持つものです。そのことからもわかるように、神は、ただそこに生まれて死ぬようにと、「ある一つの惑星に自分の息子を送ってよこす」(キリスト教の教義の一つ)ようなことはしないのです。
膨大なこうした寓話が、この世の始まりだとする物語とともに語り継がれて来ました。たとえば創世と終末についてのそうした寓話が存在するのは、単にあなた方の世界の時間の概念が歪められているために、始まりと終わりが一つになって存在根拠の確かな出来事に思えるからです。しかし実際には、そこには始まりもなければ終わりもないのです。
しかしあなた方の意識の範囲が広がり、物質的現実以外の世界を学ぶようになり、そうした現実を少しでも体験し始めると、意識というものはそれまでの古い概念にしがみつこうとし、あなた方を真実の理解から遠ざけようとします。物質をも含む多次元的要素は、実はすべての現実である現象の中に浸透しており、その一部だけを取り出して否定することはできません。ですから同様に、神はすべての存在体系に一部として存在するのであり、よって物質的現実からも離れて存在しているわけではなく、その一部として存在しているのです。
あなた方の思い描くキリストの姿は、あなた方が持っている神の概念と、神の関わり方を象徴的に表しています。キリストに関しては、3人の別個の人間の歴史が混ざり合い、それが集合的にキリストと呼ばれるに至ったものです。そのために、その人物とされる人間のさまざまな記録に多くの食い違いがあるのです。
当時のあなた方は、女性のキリストを受け入れられる意識の進化の段階にまで達していなかったために、その3人はいずれも男性として転生しました。3人はみな同じ一つの存在の一部であり、分身でした。そしてあなた方は神を、「父」としてしか想像することができませんでした。なぜなら自らの価値感に基づかない神を想像することは、当時の人類には考えられなかったからです。ましてや、地上にないものをイメージすることはなおさら不可能でした。
3人は力を集結させてエネルギーを生み出し、極めて象徴的なドラマの創造を行いました。しかしそのドラマにおける出来事は、あなた方の知る記録どおりに起きたわけではありません。そして、キリストの磔(はりつけ)による死は物理的な出来事ではなかったのです。そこでは膨大な規模の思考が渦巻き、しかもそれが一貫して実演されたのです。
たとえばユダにしても、あなた方の記録が述べているような人ではなかったのです。
ユダは他のすべての弟子たちと同様に、人間キリストによって育てられた神聖な「断片であり分身」であったのです。ユダという存在は、自分自身を裏切る行為を現しています。ユダが演じたのは、ある物質的現実の一部に焦点を合わせた役回りであり、それは誰もが持つ人格の一部なのです。
キリストの12人の弟子が表しているものは、1人の人間に属する異なった人格の資質であり、あなた方が言うところのキリストは「内なる自己」を表しています。ですから3人からなるキリストと12使徒とは、この地上における個人の人格を象徴的に表しているのです。キリストが12人の弟子に囲まれていたように、人間の内なる自己も物質的に適応している12の資質に囲まれています。このようにあなた方の内にある12の資質はそれぞれが、日常的現実に向けて外へと引っ張られながらも、内なる自己の周囲を周っているのです。
これはあなた方のあいだで「肉付けが行なわれた」寓話であり、あなた方に理解できる言葉で演じられた、あなた方のための宇宙ドラマだったのです。明瞭でわかりやすい形をとるようにと、教えの背景にあるすべての概念に擬人化が行なわれました。それはいわば、宇宙の片隅で上演された、地方色豊かな道徳劇ともいうべきものでした。
3人のキリストの人格的存在は、いずれもあなた方の惑星に転生して誕生しており、あなた方と同じように肉体を持った存在でしたが、磔(はりつけ)にされて死んだものは1人もおりません。このドラマは存在し続けるでしょう。しかも、こうしたドラマは他にもさまざまに存在しています。
そのドラマに関連した出来事は、物理的ではないものも多くありました。
そしてキリストという人間の磔(はりつけ)というドラマも、あたかも物理的出来事であるかのように、あなた方の世界に大きな波紋を起こしました。そしてこのドラマ全体は、人類からの要請があって起きたものでした。しかし人類からの要請に応じて創造され、展開されたものではあっても、あなた方の現実体系の範疇から生じたものではなかったのです。
キリスト教以外の宗教においても、異なるドラマではありながら、それもまた多種多様な概念を持つ文化において、理解されやすい方法で上演されています。そうしたドラマの違いが誤解や争いの口実になっているのは残念なことです。
さて、神は自らが創造した被造物のすべてを合わせた以上の存在でありながら、しかしその一つ一つに例外なく存在しています。神は性別にかかわらず、一人一人の人間の中に存在しているのです。それだけでなく1匹の蜘蛛の中にも、蛙の中にも、石ころの中にも神は存在しています。しかし人間たちはなかなかこのことを認めることができないようです。
神とはただ体験されるものであり、その自覚があるかないかにかかわりなく、あなた方は自分自身の存在を通して神を体験しているのです。そして、キリスト教信者であるあなた方にとって避けて通ることのできない真実は、神はあなた方の言う「神人」、つまり「人として生まれた神であるキリスト」(キリスト教の教義)とはかけ離れた存在であり、神はあなた方の言う「人格的存在」ではないということです。あなた方の人格的存在に対する概念は極めて限定されており、多次元的存在である神の膨大な局面を、その中に押し込めることなど到底不可能なのです。
しかしその一方で、神は人間1人1人の中に存在するという意味では非常に人間的でさえあります。そこにおいてあなた方は神と関わることができるのです。神はあなた方の存在そのものであるエネルギーに対して責任があり、そのエネルギーを通して互いに支えられ助けられ、かつ維持されているのです。
そのゆえにあなた方の内なる自己は、破壊されたり縮小されたりすることはあり得ないのです。あなた方の出自は神であり、そのゆえに「すべてなるもの」に本来備わっているあらゆる能力が付与されています。ですから内なる自己は、神の創造に参加するものなのです。なぜならこれこそが、すべての存在の背景にある大いなる豊かさと贈り物であり、「すべてなるもの」の源泉から今も湧き出ているエネルギーなのです。
よってこのようにして生まれた想像の結果である神は、「自分とは一体何なのか」という人類のうつろう思い込みをそのたびに反映しながら、何世紀ものあいだ変化し続けてきました。特に人類が、生き残る存続を賭けた闘いに明け暮れていた時代には、自分たちにとって必要で欠かせない資質である残虐さや剛健さなどの性質は、そのまま当時の自分たちの神に投影されることになりました。その理由は、人間たちがそうした性質に憧れ、畏れていたからに他なりません。つまりあなた方は、自らの神の概念を、自らの肉体の鋳型に入れて神を創造し続けてきたのです。
しかし、あなた方には未だ想像できないかもしれない多次元的現実においては、あなた方の持つ神の概念は相対的に無意味でしかありません。「至高の存在」という呼び方でさえが、あなた方の人間的な資質が自然に投影されてしまうために歪みを含んでいます。すべての思考や概念が実在性を持つ次元があり、それらが生み出すエネルギー存在がすべてを推し進めていることを理解する必要があります。しかしあなた方は、物質を信頼しているようには、未だ思考や概念というエネルギーを信頼することができないのです。
さて、あなた自身のまとう肉体像は、あなたが自らをどのように考えているかが、物質という性質において現われたものです。そうした考えが自らに向けられなければ、その肉体像は存在することができなかったのです。そしてほとんどの場合、そこまでがあなた方が自分を認識しているすべてです。
そうした自分自身に関する考えの原初的な力とエネルギーが、あなたの肉体を活かしています。ですから思考は、あなた方が気づいているよりも遙かに重要なものなのです。もし自分が実は多次元的存在であり、無限の可能性の中に生きていることを受け入れられるとき、あなた方は「神」という言葉を超えたところにある現実を、一瞬、垣間見るかもしれません。そして言葉による神の概念の持つ真実を把握することが、なぜ不可能に近いかが理解できるかもしれません。
神はまず、すべてを創造したものであり、一つの物理的宇宙だけにとどまらず、多様性において無限の可能性を備えた存在を創造しました。それはあなた方の科学者たちがこれまでに知り得た物理的宇宙という世界を超えた、遙かに膨大な広がりを持つものです。そのことからもわかるように、神は、ただそこに生まれて死ぬようにと、「ある一つの惑星に自分の息子を送ってよこす」(キリスト教の教義の一つ)ようなことはしないのです。
膨大なこうした寓話が、この世の始まりだとする物語とともに語り継がれて来ました。たとえば創世と終末についてのそうした寓話が存在するのは、単にあなた方の世界の時間の概念が歪められているために、始まりと終わりが一つになって存在根拠の確かな出来事に思えるからです。しかし実際には、そこには始まりもなければ終わりもないのです。
しかしあなた方の意識の範囲が広がり、物質的現実以外の世界を学ぶようになり、そうした現実を少しでも体験し始めると、意識というものはそれまでの古い概念にしがみつこうとし、あなた方を真実の理解から遠ざけようとします。物質をも含む多次元的要素は、実はすべての現実である現象の中に浸透しており、その一部だけを取り出して否定することはできません。ですから同様に、神はすべての存在体系に一部として存在するのであり、よって物質的現実からも離れて存在しているわけではなく、その一部として存在しているのです。
あなた方の思い描くキリストの姿は、あなた方が持っている神の概念と、神の関わり方を象徴的に表しています。キリストに関しては、3人の別個の人間の歴史が混ざり合い、それが集合的にキリストと呼ばれるに至ったものです。そのために、その人物とされる人間のさまざまな記録に多くの食い違いがあるのです。
当時のあなた方は、女性のキリストを受け入れられる意識の進化の段階にまで達していなかったために、その3人はいずれも男性として転生しました。3人はみな同じ一つの存在の一部であり、分身でした。そしてあなた方は神を、「父」としてしか想像することができませんでした。なぜなら自らの価値感に基づかない神を想像することは、当時の人類には考えられなかったからです。ましてや、地上にないものをイメージすることはなおさら不可能でした。
3人は力を集結させてエネルギーを生み出し、極めて象徴的なドラマの創造を行いました。しかしそのドラマにおける出来事は、あなた方の知る記録どおりに起きたわけではありません。そして、キリストの磔(はりつけ)による死は物理的な出来事ではなかったのです。そこでは膨大な規模の思考が渦巻き、しかもそれが一貫して実演されたのです。
たとえばユダにしても、あなた方の記録が述べているような人ではなかったのです。
ユダは他のすべての弟子たちと同様に、人間キリストによって育てられた神聖な「断片であり分身」であったのです。ユダという存在は、自分自身を裏切る行為を現しています。ユダが演じたのは、ある物質的現実の一部に焦点を合わせた役回りであり、それは誰もが持つ人格の一部なのです。
キリストの12人の弟子が表しているものは、1人の人間に属する異なった人格の資質であり、あなた方が言うところのキリストは「内なる自己」を表しています。ですから3人からなるキリストと12使徒とは、この地上における個人の人格を象徴的に表しているのです。キリストが12人の弟子に囲まれていたように、人間の内なる自己も物質的に適応している12の資質に囲まれています。このようにあなた方の内にある12の資質はそれぞれが、日常的現実に向けて外へと引っ張られながらも、内なる自己の周囲を周っているのです。
これはあなた方のあいだで「肉付けが行なわれた」寓話であり、あなた方に理解できる言葉で演じられた、あなた方のための宇宙ドラマだったのです。明瞭でわかりやすい形をとるようにと、教えの背景にあるすべての概念に擬人化が行なわれました。それはいわば、宇宙の片隅で上演された、地方色豊かな道徳劇ともいうべきものでした。
3人のキリストの人格的存在は、いずれもあなた方の惑星に転生して誕生しており、あなた方と同じように肉体を持った存在でしたが、磔(はりつけ)にされて死んだものは1人もおりません。このドラマは存在し続けるでしょう。しかも、こうしたドラマは他にもさまざまに存在しています。
そのドラマに関連した出来事は、物理的ではないものも多くありました。
そしてキリストという人間の磔(はりつけ)というドラマも、あたかも物理的出来事であるかのように、あなた方の世界に大きな波紋を起こしました。そしてこのドラマ全体は、人類からの要請があって起きたものでした。しかし人類からの要請に応じて創造され、展開されたものではあっても、あなた方の現実体系の範疇から生じたものではなかったのです。
キリスト教以外の宗教においても、異なるドラマではありながら、それもまた多種多様な概念を持つ文化において、理解されやすい方法で上演されています。そうしたドラマの違いが誤解や争いの口実になっているのは残念なことです。
さて、神は自らが創造した被造物のすべてを合わせた以上の存在でありながら、しかしその一つ一つに例外なく存在しています。神は性別にかかわらず、一人一人の人間の中に存在しているのです。それだけでなく1匹の蜘蛛の中にも、蛙の中にも、石ころの中にも神は存在しています。しかし人間たちはなかなかこのことを認めることができないようです。
神とはただ体験されるものであり、その自覚があるかないかにかかわりなく、あなた方は自分自身の存在を通して神を体験しているのです。そして、キリスト教信者であるあなた方にとって避けて通ることのできない真実は、神はあなた方の言う「神人」、つまり「人として生まれた神であるキリスト」(キリスト教の教義)とはかけ離れた存在であり、神はあなた方の言う「人格的存在」ではないということです。あなた方の人格的存在に対する概念は極めて限定されており、多次元的存在である神の膨大な局面を、その中に押し込めることなど到底不可能なのです。
しかしその一方で、神は人間1人1人の中に存在するという意味では非常に人間的でさえあります。そこにおいてあなた方は神と関わることができるのです。神はあなた方の存在そのものであるエネルギーに対して責任があり、そのエネルギーを通して互いに支えられ助けられ、かつ維持されているのです。
そのゆえにあなた方の内なる自己は、破壊されたり縮小されたりすることはあり得ないのです。あなた方の出自は神であり、そのゆえに「すべてなるもの」に本来備わっているあらゆる能力が付与されています。ですから内なる自己は、神の創造に参加するものなのです。なぜならこれこそが、すべての存在の背景にある大いなる豊かさと贈り物であり、「すべてなるもの」の源泉から今も湧き出ているエネルギーなのです。