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「老化」は自分の思考が創り出す

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「老化」は自分の思考が創り出す

   我々の最初の者たちが物質的な形をもつことを試し、この惑星の美しさを楽しむために地球にやってきたとき、我々のこの身体というものを創り出した。我々はそれを、至高の創造主の光とエネルギーから直接物質化したのだ。つまり出産は必要なかった。当時の肉体は今よりもずっと軽く、もっと早い振動数だった。我々は神であり、すべてのパワーとすべての創造力そのものであると知っていたので、我々の肉体には老いや死というものはなかったのだ。

   我々は望みのままに、それまでいた最も軽やかな世界と地上の世界を行き来した。
   望むと同時に欲しいものは目の前に現れ、空間によって隔てられているように見えるものも、すべては我々と一つであることを知っていた。我々は長い間、この天国のような状態で生きていたのだ。そしてこの歴史の最後の部分が、聖書のエデンの園や、その他の宗教にわずかに取り入れられている。

   我々が神であることを忘れ、物質世界が現実だと信じるようになり、そういう世界がもたらす物理的な法則だけに従って生きるようになるとともに、人間の「転落」「堕落」を次第に引き寄せるようになっていった。そして自分たちは神とは別の者だと信じるようになっていたが、思考においてはまだ神としてのパワーと創造力を持っていたために、自らの思考である欠乏や貧困、病気や戦争、そして老いや死を創り出すようになってしまった。それ以来ずっと、それらは我々と共にある。

   深い罪悪感と恐怖もまた、我々とともにある。
   守られていると感じるために、我々は独立したエゴを創り出す必要があると感じた。そして、我々の恐れと同じだけのエゴが神と入れ替わったのである。我々はこれを「転落」「堕落」と判断してきた。しかしそれさえもが、我々のために必要な良いことであった。なぜならそのおかげで、神と一体であるという自らの知識を、遅かれ早かれ、客観的に捉えられるようになったからである。

   神と一体であったころの我々は、水ということを知ることなく水の中で泳ぐ魚のような、主観的な状態にあった。そして我々は、喜びや苦しみなど人生のあらゆる可能性を知りたいと思った。そして水から飛び出した、いやむしろ、飛び出したと信じた、と言ったほうがいいかもしれない。なぜなら、我々がたとえどのようであれ、神と一体であることは変えられない事実であるからだ。

   その時以来我々は、地獄のようなところへも行けるだけ行き、そのようにして限りない体験を積みながら知恵を身につけていった。それは我々を少しずつ水の中へと、少しずつ神と一体であるという知識へと連れ戻してくれる知恵でもあった。その過程は、実に苛酷で困難な道のりであったために、我々はそれまで常にあった愛とパワーの感覚の大部分を失ってしまった。しかしながら、我々の明らかな神との分離の時を裁くことよりも、我々のした決断を愛を持って理解し、それを受け入れるほうがずっと益になる。完璧なダイヤモンドである我々の神性は、「自分たちは一体誰なのか」に関した間違った思い込みによって深く隠されてしまった。

   今我々の周囲を見渡してみても、老いと死という限界はごく自然なことであり、少なくとも人生とは「そういうものだ」と信じられている。老いと死について、動物たちや木々やその他の生き物たちの死は、この「自然さ」を証明しているかのように見える。しかしながら我々の惑星である地球では人間の意識が支配的であることが理由で、動物や植物などの多くは、我々人間の死の予想に支配されているのだ。だが一方で、一部の植物や木々たちは、このような我々人間の意識を超越しているように見える。たとえばバンヤン樹の死のプロセスはいまだによくわからず、野生植物なども永遠に生きているとしか思えないもの達がいるのだ。それらの野生植物たちは人間の持つ死の観念を、蕾(つぼみ)で密かに拒みながら、いったい何千年野山に咲き続けているのだろうか。実際に、無限に生き続けているような小さな植物はたくさんある。

   しかし一般的に、自然は我々人間の意識に大人しく付き従ってきた。
   肉体は衰えるという我々の確信が、老いや死だけでなく我々や動物の身体や木々や植物に、有害であったり殺傷力のある細菌やウイルスや虫など、さらには癌のような内側の事故破壊メカニズムまでも作り上げたのだ。地球の傾きが、死の幻想に拍車をかける。そのために多くの木々が冬になると葉を失い、花々は寒さに耐え切れずに死んでしまう。もしも地球が傾いていないならば、植物や木々は一定して変わらない気候に適応していただろうし、1年中、自らが選択した休み以外は生命を充分に表現していただろう。そして実際に生命は、自然にどこまでも広がっていくものなのだ。そしてこの惑星に死をつくったのは我々である。

   しかし、良い知らせがある。
   我々がどれほど真実の認識や体験から逸れてしまっていたとしても、我々はすでにその旅の果てにたどり着き、そこから向きを変えて帰途についているのだ。我々は、自分たちが神のイメージそのものであることを思い出しつつある。すべてを超える神、創造を超える神は、特質というものを持たないかもしれない。しかし自然の中の生命や、創造の中に表現された神を深く感じ取ると、神の驚くべき特質に出くわす。それが無条件の永遠の愛であり、光、喜び、パワー、自由、調和、平和であり、存在の不変性や永遠の広がり、永遠の生命であり、完璧な全体性である。そして我々が目指すものはこの神との一体性、つまり自分のうちに本来ある「聖なる自己」を再体験することである。

   「自分の心の真実を体験すると我々は自由に考える者になり、自らを開いて、自分と他人のあらゆる選択肢と可能性、そして無限の創造力を許すようになる。そして自然のうちに我々の真実や愛、楽しさ、豊かさ、創造力の高まり、またパワーと完璧な幸福を知るという感覚を体験する。」  悟りの定義のほとんどがここで終わっている。しかしもし我々が「最後まで」行くことを望むのであれば、ここからさらに、神としての心と感覚、肉体を通してあらゆるものを認識し、再体験することが付け加えられる。

   ほとんどの霊的な集団では、地上の世界を「物理的現象の総体」として、あるいは肉体というものを物質的で価値のないものとして捉える傾向にある。「身体のことになぜ関心を持つのか? 身体は使い終わったら捨て去るただの入れ物、単なる乗り物に過ぎない。その乗り物がどうであれ、我々は永遠に生きるのだ」、というのが一般的に考えられていることだ。しかし真実は、我々の生命が終わるとともに肉体を「使い終わる」わけではない。だからこそこのことが理由で、我々は「転生」というものを考案しなければならなかったのだ。

   社会に適応するためにはある感覚を神から切り離さねばならず、そのために我々の地上での生活が余りにも困難なものとなった。しかしその困難は、肉体とともに生きることや地上に生きることからもたらされているのではない。この体験を困難にしているのは我々自身なのだ。そのために今我々は再び、この素晴らしい肉体という創造物を光り輝くものにしなければならない。

   光から肉体を創造するとき、我々はそれが固体に見えるまで光の振動数を下げねばならなかった。アインシュタインの相対性理論が示していることは、これとは逆のプロセスで、E=mc^2とは質量の速度が上昇するとエネルギーになるということなのだ。つまり、肉体は光という神の基本要素でできている。そして、それは固体のように見えるもののすべてを原子が構成しており、それぞれの原子の99%以上が空間なのだ。この空間を人体の奇蹟に形作るのが思考であり、本質的にそれは神の考えなのだ。

   我々は健康を維持するために、身体の働きの夥(おびただ)しい活動を意識して行なっているだろうか? 古い細胞が落ちるたびに、身体を新たに作り直しているだろうか? 我々の内に働く神の思考は、完璧な美しさと活力、健康、そして強さとなって表現される。それなのに我々の身体が老いていくように見えるのはなぜかといえば、それはわれわれの限られた思考と感覚が引き起こすことなのだ。そのゆえに、このような制約と信念を心とハートから解き放ち、神の無限の思考を再び迎え入れることができるならば、我々は身体本来の若さと完璧さを取り戻すことができるのだ。



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